軽井沢ヴィラ・ヘメロカリス

previous arrow
目次1

目次: 第一部 
*試し読み無料
*第1章 憧れの少女
*第2章 クラスデコ
*第3章 由比ヶ浜の桜貝
*第4章 いざ横浜へ
 第5章 ラピスラズリ
 第6章 敦煌の歴史
 第7章 ニキビ顔
 第8章 シルクロード

目次2

目次:第二部
 第9章 匂いフェチ
 第10章 浮気野郎とイタリアン
 第11章 湘南の夕焼け
 第12章 夜光の杯
 第13章 フィナーレ
 第14章 アジサイとハナショウブ
 第15章 親友
 第16章 七里ヶ浜の決闘

目次3

目次: 第三部
 第17章 江ノ島スケッチ
 第18章 稲村ヶ崎の夜明け
 第19章 手紙
 第20章 血の拳と唇
 第21章 敦煌への旅立ち
 第22章 それから
 第23章 シルクロードの旅
 第24章 敦煌の微笑み (最終章)

next arrow
 

第1章 プロローグ

 茜色に染まった空と海。その境界に美しい独立峰が聳えていた。稜線は左右均等になだらかに広がり海上に浮ぶ巨大な影絵のようだった 。血のように赤く染まった笠雲が山頂付近に掛かっていた。「何もかも捨てて駆け落ちしてしまえ」と茜色に染まった潮騒が愛子をそそのかした。高ぶった気持ちのまま、連れ添って歩いていた恋人と情熱的なキスを交わした。

 不意に背後からカメラのシャッター音が聞こえてきた。背後に目をやると砂丘の手前で男が三脚を構えてシャッターを切っていた。勝手に被写体にされていたことへの非難を込めてきつく睨み付けた。男はファインダーから顔を上げてにこやかな笑みを浮かべて会釈した。人の良さそうな初老の紳士だった。愛子は閃いた。彼が撮った写真を送って貰おう。今日は七夕だが笹に短冊を結ぶ機会もないだろう。恋人の腕から離れて三脚の後ろで微笑む男に歩み寄って行った。

「今、私たちを撮りましたよね?」

「えぇ黙って撮ってすいません。でも私が撮りたかったのは夕焼けの風景でして別にあなたを狙って撮った訳じゃないんです」初老の紳士はバツが悪そうに弁明した。

「咎めている訳じゃないんです。出来れば撮った写真を記念に送って頂けないでしょうか?旅の記念に写真を撮りたかったんですけどカメラが壊れちゃって…」

「私の撮った物でよければ送りますよ。ただ逆光になっていたのでシルエットになって顔はよく分からないと思いますよ」

「ありがとうございます」と紳士に郵送先を教えてから郵送代を手渡した。

 その後、渚で佇む恋人のもとへ戻り砂浜の上に二筋の足跡を残しながらゆっくりと歩を刻んだ。やがて太陽は海上に沈み大地は夜の帳に閉ざされていった。海辺のペンションの一室から恋人と共に夜空を見上げた。天の川には織姫と彦星が煌々と輝いていた。窓辺で口付けを交わしそのままベッドへ移り熱く甘く互いの体を求め合った。夜中にふと目が覚めると恋人は横で静かに寝息を立てていた。起き上がって窓を開けると潮騒が心地よく耳に響いた。まるで天の川の渚にいるような気分だった。明日になれば恋人と別れて軽井沢へ戻らなければならない。織姫になったような気分で星空を見上げ「二人に永遠の愛を下さい」と祈った。

第2章 軽井沢の夜明け

 数日後、愛子は軽井沢に戻っていた。浅間山の山麓を覆う森の一角に夫が経営するホテル軽井沢ヴィラ・ヘメロカリスがある。白亜の聖堂を思わせる瀟洒なリゾートホテルだ。ベッドから起き上がって時計を見るとまだ朝の四時半だった。カーテンを開けて外を見ると東の空が白み明けの明星が光っていた。暁の光を浴びた浅間山は赤茶けた山肌を青空に晒し噴煙を上げていた。その風貌はまるで軽井沢の支配者のようだった。朝日が山麓に降り注ぐとワサワサと雲が湧き上がり西から東へと帯状に流れていった。そしていつの間にか浅間山は霧雲の中へ顔を隠した。寝起きの顔を見られたくない年増女でもあるまいし浅間山も愛想がないものだ。霧中からホトトギスの声が朗々と響いてきた。

 鳥の囀りを聞きながらモーニングコーヒーをいれて飲んだ。毎朝の日課だった。夏休みに突入し軽井沢は最も忙しい時期を迎えていた。軽井沢ヴィラ・ヘメロカリスにも多くの宿泊客が入り満室状態となっていた。夫である星川寛司はホテルの経営会社、星川観興の社長だ。

 先代の頃は「宿屋夕菅」と言う和風の旅館だったが父親から旅館を引き継いだ寛司は全面的にホテルを新築して経営改革を進めた。高級リゾート化、温泉事業の強化、ブライダル部門の立ち上げという多角的な経営を展開した。事業は軌道に乗り最近では大型の健康スポーツ施設や他の観光地のホテル買収にも手を出して繁忙を極めている。

 愛子は高校卒業後に上京し花屋で働きながらフラワーデザイナーの勉強をしていた。そしてフラワー装飾技能士の資格を取得しブライダルを主に扱うフラワーデザイン会社へ転職した。その会社でブライダルのフラワーアレンジメントの仕事をしている際に商談に訪れた寛司と出会った。第一印象はパッとしないおじさんだと思った。年齢も三十五歳と一回り年上だったので恋愛の対象としては眼中になかった。寛司との会話で軽井沢でホテル経営をしているという話を聞いて懐かしさを覚えた。少女の頃、避暑で軽井沢の別荘によく遊びに行っていた。しかし父親の事業の失敗、両親の離婚という立て続けに起こった不幸な出来事によって軽井沢は縁遠い地になっていた。

 その後、寛司の熱烈な誘いに負けてデートをした。最初は美味しいディナーでも奢ってもらおうという甘い考えだった。それから軽井沢でも何度かデートをした。軽井沢はかつての人生の中で一番幸せだった時代を過ごした場所で優しい家族、優雅な生活、そして初恋。少女時代の幸福が軽井沢に凝縮していた。思い返せば軽井沢で寛司と共に生活すればあの頃のような幸福な時代を取り戻せると錯覚したのかも知れない…結婚後、副社長の役職を貰った。

 子供が出来たら辞めるという約束で引き受けたが一年経ち二年経っても子供には恵まれなかった。そしてずるずると仕事を続けているうちに五年の月日が経ち二十八歳の夏を迎えようとしていた。

 ここ数日、夫は出張で軽井沢を空けていた。数ヶ月前に熱海の老舗温泉旅館を買収してから熱海で過ごすことが多くなっていた。夫の話では顧客調査に始まり従業員の意識改革、設備投資、リストラ、コスト削減とやらなければいけない経営改革の仕事が山ほどあるということだった。たくさんの資料を見せながら丁寧に説明してくれた。

 しかし彼が言葉を尽くして説明すればするほどこの人は何か隠していると女の直感が働いた。仕事の話は半分は本当だろう。半分は浮気を隠すために言葉の煉瓦を積み上げているだけだった。しかし責めなかった。証拠がないからではない。既に愛が覚めていたからだ。夫は夜が淡白な性質だった。仕事には客の満足を得るために情熱を持って取り組んでいるくせにベッドでの仕事となると淡白だった。妻の満足も考えないで自分が満足したら勝手に眠り扱けていた。女としての性欲が強い方だとは思わないが何とも物足りなかった。そんなこともあってここ数年は夫婦としての夜の営みはなくなっていた。愛のない性交など苦痛なだけだ。夫が外で遊んでいるのならこっちはこっちで楽しませてもらうと割り切っていた。

 石の上にも三年というが五年も副社長の仕事をしていれば一端の仕事が出来るようになった。生来がテキパキとした性格だったので今では職務を手際よくこなし会社になくてはならない存在となっていた。特に最近は夫が軽井沢を留守にすることが多いので軽井沢の仕事を取仕切っていた。社員の間でも高飛車で無愛想な夫よりも気配りが行き届く自分の方が人気が高く経営者としての評価も高かった。

第3章 社内抗争

 週一回の幹部会議には副社長の愛子、専務の石墨、経営戦略局室長の稲葉、営業部長の柳沢、経理部長の土屋の五人が顔を揃えた。営業部長の柳沢は先代の従弟に当り先代を支えて来た最古参だ。経理部長の土屋は社長の妹の旦那つまり社長の義理の弟に当たる。先代の健一郎の頃は家族経営の色合いが濃く幹部は親族で固めていた。

 しかし寛司が社長に就任すると状況は一変し経営に次々と新しい血を入れた。熱海の旅館経営で実績を上げていた石墨をヘッドハンティングして専務という破格のポストで迎え入れた。さらに札幌のブライダル業界の風雲児と呼ばれていた稲葉を経営戦略局室長、及びブライダル部門の総責任者という高待遇で引き抜いた。

 新しい血は二人だけでなかった。彼らは前の会社から有能な部下を引き連れてきた。それにより社内の勢力地図は大きく塗り替えられた。実力のあるものが伸し上がる活力ある組織となった。一方で親族社員が肩身の狭い思いを強いられる状況になっていた。

 幹部会議は先月収支報告から始まった。発表者は経理部長の土屋だった。宿泊客の入りは好調で日帰り入浴施設も大入りが続いていた。それ以上に黒字を叩き出していたのがブライダル事業だった。稲葉がブライダル部門を統括してから矢継ぎ早に魅力溢れるアイデアを盛り込みそれが口コミやマスコミを通じて知れ渡りヴィラ・ヘメロカリスは今や軽井沢を代表するブライダルホテルとなっていた。遠来の招待客は結婚式後、観光を兼ねて泊まることが多かったので宿泊客の安定確保にも貢献していた。

 収支報告の後、専務の石墨から大規模開発プロジェクトの報告があった。四季を通して楽しめるスポーツクラブと温泉が一体になった複合施設の建設に向けて邁進していた。彼の構想では別荘族や移住者の高齢化を睨んで施設内には医師や看護師も常駐させて主に中高年の健康増進をターゲットにするという話であった。

 石墨は柳沢と共に許認可取り付けのために役所や地元政治家への根回しや用地買収に向けた折衝などに飛び回っていた。しかし大規模開発には社内の一部からも反対の声が挙がっていた。反対派は稲葉、土屋、柳沢の三人だった。三人に加えて既に隠居の身ではあるが会長の健一郎が猛烈に反対していた。

 しかし社長の寛司は父親の意見に耳を傾けようとはしなかった。愛子は何度も健一郎から寛司を説得するように頼まれたが意思を変えることは出来なかった。愛子は全面的に反対ではないが慎重論を唱えていた。莫大な投資をしてそれに見合った収益を上げられるかが心配だった。もっと徹底した市場調査が必要だと考えていた。

 事態をさらに悪化させていたのは自然保護団体が地域住民と一緒になって開発反対の運動をしていることだった。建設予定地には絶滅危惧種の植物や野鳥が多く生息していた。その中に浅間黄菅という希少な山野草があった。夕菅という花の仲間で軽井沢一帯の特産種だった。背丈が高く沢山の花を付けるという特徴を持つ。

 最近、観光協会でもこの希少な山野草を観光に生かそうという動きが出ていて、「軽井沢黄菅」という愛称を付けて盛んにPRしていた。軽井沢で観光業をなりわいにしている者にとって自然保護と開発の両立は永遠のテーマだった。

 その日の会議でも稲葉と石墨の間で白熱した議論が交わされた。稲葉が反対する理由は地元住民の反対だった。地元の反感を買ったまま押し進めれば企業イメージの低下は避けられない。もしそうなればブライダル業が大打撃を受けるというのが彼の主張だった。二人の激しいやり取りに柳沢が割って入って石墨に質問した。

「軽井沢っつうとテニスコートだろう。何んでテニスコートは作らねぇだ?」

「柳沢さん、だからあんた達は駄目なんだ。現状を見なさいよ。かつてのテニスブームで軽井沢にはテニスコートが腐るほどある。だが殆どガラガラですよ。満杯になるのは学生の合宿や大会がある夏休みのほんの一時期だけです。そんな物を作るのは正直言って愚の骨頂です」石墨は、柳沢をボロクソに扱き下ろした。柳沢は立腹して声を震わせて反駁した。

「しかしだ。スポーツ施設と銘打ってテニスコートもねぇようじゃ駄目じゃねぇかい。軽井沢でテニスは基本中の基本だに」それを聞いた石墨は頭を左右に振ってから子供を諭すような口調で言った。

「何故、周りと同じことをやろうとするのかな。他と違うことをしないと今の時代生き残れないんですよ。だからあなたは駄目なんです。ここを使わないとここを」と指で頭を示した。柳沢は眉間をぷるぷると震わせて言った。「大人しく聞いてれば勝手なことばっかり抜かしやがって。軽井沢の人間を愚弄するのもいい加減にしろ。地元のもんを苛めるような事業ばっかりやりやがって」と激しく机を叩いた。

「人聞きの悪いことは言わないで下さい。第一、今回の開発は多くの地元民に雇用をもたらすんです。潤うのは地元民なんですよ。原野に雑草が生えるがままにしておいて何処に産業が育つというんですか」

「喧しいわい。元々この計画には反対なんだ。社長の命令だから涙を呑んで仕事をしてけんどなお前のやり方が気に食わねぇだ。あんな強引な方法で土地を巻き上げるのはヤクザのやり方だ」

「ヤクザだなんて物騒なことを言わないで下さいよ。土地買収にゴタゴタは付き物なんですよ。一々それに感傷的になっていては仕事は進みませんよ」と鼻で笑った。

「外の人間に自分の故郷がどんどん壊れていく哀しさが分かってたまるか」と石墨を睨んだ。

「またそういう感傷論ですか。開発なくて新たな発展はありません。第一、軽井沢だって元を糾せば単なる森だったんです。そこを別荘地にしたりゴルフ場やスキー場にしたりアウトレットを造ったりして地元経済が潤ってきたんじゃないですか。違いますか?このホテルだってしかりですよ。一代目の社長が切り拓く前は単なる原野だったそうじゃないですか。一代目が開発したから今のヴィラ・ヘメロカリスがあることを忘れちゃいけませんよ」と勝ち誇った顔で皆を見回した。

 会議室の中に不穏な空気が流れた。最近は柳沢と石墨が衝突することが多い。大規模開発の件で一緒に外を回ることが多くなってから特に顕著になった。昔ながらのやり方に慣れた柳沢が石墨の豪腕な仕事ぶりに付いていけないのだ。柳沢は思ったことを直ぐ口にする性質なので最後は感情的な言い争いになってしまう。愛子は拙速な強行策はしないで再度入念な市場調査をしてから計画を進めるように指示した。

 最後の案件は稲葉が推進しているブライダルの新企画だった。稲葉は朗々と企画の説明を始めた。「軽井沢はブライダル業の盛んな所です。明治時代に訪れた宣教師のショーが避暑地として軽井沢に住み始めた事から、多くの外国人が避暑地として別荘を建て始めました。そのため多くの教会が建てられ高原の教会というイメージが定着しました。そのブランド力は今も厳然として力を失っていません。しかしながら軽井沢でのブライダルはもう頭打ちです。現在、軽井沢にはブライダルホテルが林立しています。パイは限られているがそれを奪い合う商売敵は今も増え続けています。つい最近も雲場池の畔に新しいブライダルのゲストハウスが出来ました」

「先程、土屋さんから報告があったとおり利益はブライダル部門に負う所が大きいわ。何としても今の利益率を確保するように全力で取り組んでもらわないといけないわね」愛子は稲葉を見つめて話した。

「私がブライダル事業の総責任者として赴任して以来、様々なイベントを提供しつつ経営効率の改善に努めてきました。赤字だったブライダル事業は今では社内一のドル箱にまで成長しました。しかし経営効率化も詰める所まで詰めました。正直に申し上げてこれ以上の急激な成長は見込めないでしょう」

「あんたは収益が落ち込むことに対して単に言い訳を用意してきただけですか」と石墨は皮肉を言った。

「それを補うための新企画について話したいと思います。軽井沢では高原ブライダルが常識です。しかし札幌では都心でのブライダルが常識です。私自身、軽井沢に来て自然と一体となった高原ブライダルは目から鱗でした。ブライダルの新企画として札幌で高原ブライダルを展開することを考えています」

「最近の札幌のブライダルの動向はどうなっていますか?」と愛子は尋ねた。

「市場調査のために札幌へ出張に行ってきました。結果は予想通り良好でした。新しくオープンしたホテルの殆どがこの地図にありますように札幌駅周辺に建設されていましたしブライダルホテルの殆どが札幌駅から中島公園に掛けての都心部に集中しています」

「札幌では高原ブライダルは未開発のままでした。今こそ絶好のチャンスです。都心の開発が終わればその矛先は間違いなく緑豊かな郊外に向くでしょう。それから参入したのでは遅すぎます。先んずれば人を制すです。ここは積極的に打って出るべきです」稲葉は幹部たちに向けて熱弁をふるった。

「札幌の人口は何処くらいですか?」と愛子は冷静に尋ねた。

「札幌の人口は二百万人に迫る勢いで年々増加しています。隣接する石狩市、江別市、北広島市、小樽市を含めれば二百五十万人以上となります。更に札幌市周辺には大学が多く若者が多いのがメリットです。卒業後に札幌に就職した若者の結婚が見込めます。高齢化が進む軽井沢周辺に比べれば無尽蔵ともいえるパイがあります」

 幹部たちは稲葉の話に引き込まれた。稲葉を敵視している石墨も稲葉のプレゼンには文句の付けようがなかったようで悔しそうに爬虫類のような冷たい視線を稲葉に向けていた。石墨は社長にヘッドハンティングされ以来、実績を積み上げてきた。しかし現在は売上、利益に対する貢献度は稲葉の後塵を拝していた。社長からの信頼、社員からの人気も稲葉の方が上回っていたし常務取締役への昇進が噂されていた。そのため石墨の敵愾心は並大抵の物ではなかった。

第4章 セックスレス

 経営会議が終わり愛子は社長室に戻った。社長と副社長のデスクが並び一隅には青銅製の浅間山の模型が置かれていた。直径2mにもなる巨大なミニチュアだった。先代の健一郎が軽井沢在住の有名な芸術家に頼んで造ったものだった。

 ソファーに深く腰を沈めて溜息を漏らした。最近の会議では険悪な空気が流れることが多くて疲れる。しかも社長の寛司は軽井沢の仕事は任せっ切りで熱海に入りびたりだった。面倒な仕事を丸投げして熱海に逃げ込んでいるように思えた。先代から受け継いだ旅館をリゾートホテルとして再生して大成功を収めた寛司の手腕は多くの人が認めていた。だが妻である愛子は裏の顔も知っていた。仕事では何でも知っているような態度で振舞っているが家の中では頼りないことが多々あった。ここぞという時には小心者だった。ここ数年そういう傾向が強まっていた。

 社長室の奥は夫婦の生活部屋になっていた。寝室に居間、バスやトイレ、簡単なキッチンにダイニングルームなどがあった。ホテルを新築した頃は夫婦で仲良く生活していたが今は専ら自分だけが使っていた。寛司は軽井沢に戻ってきた時に寝室として使うくらいだった。二人の間には長いこと夫婦の交わりはなかった。寛司は別のベッドに入って無遠慮に高鼾をかいて寝るだけだった。既に愛がひやがっているので好都合だったがけたたましい鼾には閉口だった。

 その日の午後、軽井沢の新緑祭りの一環であるフォトコンテストの表彰式があった。本来ならば観光協会の理事を務めている寛司が顔を出すべきだったが不在のため愛子が代理で出席することになっていた。東京から軽井沢までは新幹線で一時間ちょっとだ。熱海からでも出席しようと思えば直ぐに戻ることが出来る。しかし寛司は出席を断った。表立った理由は熱海での仕事が忙しいからとしていたが本当の理由は別にあった。数ヶ月前、観光協会の理事会で、寛司はフォトコンテストの表彰式を自分のホテルで開催したいと提案した。しかし案件は却下された。それで子供のように臍を曲げているのだ。

 髪と衣装のセットするためホテル専属のスタイリストの萩原歩美を呼んだ。歩美とは同い年という事もあり副社長と従業員という立場を超えて気さくに会話できるのが何よりも楽しかった。また日頃しないような派手なスタイルも積極的に勧めてくれて新しい自分を発見できることも楽しかった。

 その日も歩美のアドバイスに従ってポニーテールにしてみた。前髪はアップで綺麗にまとめて後ろ髪は高々と派手に結わえた。会話で稲葉の話が出てきた。今、女性従業員の間では一番人気らしい。ハンサムで身長が高くて仕事も出来る。雰囲気からすると歩美も憧れているようだった。歩美が探りを入れるような口振りである噂について質問した。それは稲葉と愛子が不倫をしているという噂だった。よくよく聞いてみると二人が社長室で手を握り合っていたのを誰かが目撃したらしい。それを聞いてうかつな事をしてしまったと悔やんだ。しかし顔には出さずに単なる噂だと笑い飛ばした。

 髪のセットが終わってから鏡を前にしてドレスを合わせた。何着か着てみて大胆なピンクのワンピースドレスに決めた。乳房の上半分が露出していて豊かな膨らみがはっきりと分かる。観光協会の年寄り連中には少し刺激的過ぎるかも知れないが認知症の予防にはなるだろう。ピンクの水晶の付いたネックレスを付けた。胸の谷間のVゾーンで可愛らしい輝きを放っている。少女時代に旧軽銀座で手に入れた安物だが初恋の人からプレゼントされたもので一番のお気に入りだった。当然、夫には自分で買った物だと嘘を付いていた。装いに満足した愛子は中庭に面した窓のブラインドずらして外を見た。陰鬱に滞っていた霧は消え去り晴れ上がっていた。中庭にある鳥の餌台ではヤマガラが美味しそうに向日葵の種を啄ばんでいた。

投稿日:

Copyright© 朝比奈颯季_AsashinaSatsuki , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.