真田幸村伝説殺人事件

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目次1

目次: 第一部 
*試し読み無料
*第1章  上田上殺人事件
*第2章  初恋の人
*第3章  真田昌幸の策略
*第4章  真田一族と天狗
*第5章  白山様とヤマトタケル
 第6章  ヤマトタケルと真田一族
 第7章  幸隆の知略 VS 義清の武勇
 第8章  真田幸村の不死伝説
 第9章  幸村の脇差し
 第10章 湯立神事の剣

目次2

目次:第二部
 第11章 モーニングコール
 第12章 いつ、喧嘩をするの?
 第13章 幻想
 第14章 真田のレガリア
 第15章 人間はパンのみで生きるにあらず
 第16章 生きるよすが
 第17章 行くも地獄、行かぬも地獄
 第18章 幸村の首
 第19章 嫉妬の鍵
 第20章 パンドラの箱

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第1章 上田城殺人事件

 海野元気の日課は朝のんびりと近所にある上田城を散歩することだ。その日、上田城の中を散歩していると石垣の上にカラスが集まりせわしく鳴きたてていた。妙に気になってカラスたちを追っ払おうとわざとドスドスと足音を大きくして走って近づいた。カラスたちが飛び去った石垣の上に立つと眼下のお堀に大きな物体が浮かんでいた。階段を下りてお堀の近くまで行き目を凝らしてみた。「人だ。人が死んでる」と思わず腰が抜けてその場にへたり込んでしまったが手の震えを抑えながら警察に通報した。

警察が来るより先に野次馬が集まり城内は物々しい雰囲気になった。しばらくして来た警察や救急隊員がそれをかき分けるようにして入ってきた。

 元気は第一発見者という事で警察から事情聴取を受けて遺体発見の経緯を説明した。被害者は上田城内にある眞田丸神社の宮司を務めている富岡という男性である事が分かった。当初、遺体の状況から死因は溺死ではないかとみられていた。検死では刃物による深い刺し傷が背中に見られ、心臓への一突きが致命傷になったと判断された。殺害現場の上田城やその周囲をくまなく捜索したにも関わらず凶器に使われた刃物は見つからなかった。

 日本一の兵、真田幸村。彼が徳川軍を撃退した上田城は彼の父である真田昌幸によって築城された。昌幸は豊臣秀吉に『表裏比興の者』と評された智謀の将だ。昌幸はここ上田城にて徳川軍の侵攻を二度も撃破し知略と武勇を天下に知らしめた。真田幸村、昌幸の親子は郷土の誇りだ。

 殺人事件から数日経っても犯人はまだ捕まっていなかった。上田市民はその事件の噂で持ち切りだった。元気はまさか自分が殺人事件の第一発見者になるとは夢にも思わなかった。ランチを食べに上田城の近くにある行きつけの蕎麦屋「壱千本さくら」に来ていたが、店内もどこかソワソワとして落ち着かない雰囲気だった。

 しばらくして、注文していたざるそばが来た。風味が豊かで、喉越しの良いので、大のお気に入りだ。そばの香りを楽しみながら食べてから、そば湯をたっぷりと飲んで、お腹がたらふくになった。少し眠気を感じたが、元気はカバンから本の原稿を取り出しチェックをした。実は「天狗についての本」を来年の春に出版する予定だ。

 元気は、大学卒業後に地元紙の新聞記者として働いていた。しかし数年前に辞めてフリーライターとして独立した。記者時代は、文化部に勤務し信州の歴史・伝説などを取材して記事を書いていていた。いろいろと取材している内に、もっと深く調べて本を書いてみたいという情熱が抑えきれなくなり脱サラをした。

 しかし、現実は甘くはなかった。元気がフリーライターである事を知っている人間は、家族や親しい知人のみ。交換日記じゃあるまいし、友達や恋人から執筆の依頼が来ることはない。必死になって出版社に、本を書きたいと話を持ち込んでも生意気な若造という目で見られて相手にさえされない。フリーライターという肩書き響きはいいが実際にやるとなるとこれほど厳しいものはないと実感している。

 何度も心が折れそうになったが何とか人脈などを頼って雑誌や企画本の記事の仕事を少しずつ貰えるようになった。ただ経済的には厳しかったが本当に自分が興味を持てる事の取材や執筆に時間を取れるのは良かった。

 ここ数年、信州を駈けずりまわって天狗の祭りや伝説の地に取材に行った。飯山や戸隠を始めとした北信州で行われている巨大な松明を灯す柱松祭、遠山郷などの南信州で行われている霜月祭。天狗伝説は日本三大天狗として名高い飯縄権現を始め、浅間山の天狗と数え挙げると切がないほどたくさんの伝説が信州にある。将に信州は「天狗の国」だ。「天狗」の企画を新聞社に持ち込み、地元紙の文化欄に天狗の国・信州というコラムを週一で連載する仕事をもらえて続けてきた。それを本として出版することになった。

第2章 初恋の人 

 元気は蕎麦屋を出て上田駅前に向かった。駅前ロータリーには真田幸村の像があった。騎馬にまたがり鹿の角の兜をかぶった勇壮な姿だ。幸村公に挨拶してから駅前を通り過ぎて待ち合わせ場所の喫茶店に向った。

 喫茶店は古びたコンクリートの小さなビルにあった。怪しげなランプが光り「マフラージュ」という看板を照らしていた。ドアを開けて狭い階段を3階まで上り中に入った。

 アラビアンテイストの喫茶店だった。異空間に瞬間移動したような感覚を覚えた。アシニというイエメンのコーヒーを注文すると洒落たカップで出てきた。ワインの風味が漂うコーヒーで初めて経験する不思議なテイストだった。約束の時間になったが打ち合わせの相手は来なかったので二杯目はイランの茶を注文して飲んだ。カバンから原稿を取り出して読み返して時間を潰した。予定時間から三十分ほどして店外からバイクの排気音が響いてきた。ようやく到着したようだ。

「ごめん、ごめん、待った?別件の仕事が急にはいちゃってさ」と片倉安寿が長い髪を整えながら店内に入って来た。

「全然、待ってないよ。おかげさまでアラビアのコーヒーとお茶を一杯ずつ味わったよ」と嫌味を言った。

「あら、ごめんなさい。でもここの喫茶店。いい雰囲気でしょう」と椅子に座った。

「不思議なテイストだね。所で今日はどういう風の吹き回しだい?いつもの打ち合わせ場所は図書館とか公共スペースだけど、こんな洒落た場所にするなんて」

「内密で相談したい事があるのよ」

「それはビジネスとは関係なくプライベートなという意味?」

「そうよ。内密の話はビジネスの話が終わってからするわ」と安寿はテーブルに身を乗り出して耳元で囁いた。

「OK。じゃあ早速ビジネスの話をしようか」と原稿を安寿に手渡した。

「ちょっと待って。読む前に私も何か注文しようかしら。そうね。イエメンチャイにするわ。マスター、イエメンチャイを一つ」とカウンターの方に叫んだ。

 安寿は現在、地元紙の出版部で働いている。元気の「天狗の国」の書籍化の担当をしていた。高校の同級生で大学は違ったが就職先が同じ地元紙で同期入社だった。彼女は原稿をじっくりと読んでから言った。

「うん、まぁまぁね。こんなもんでしょ」

「まぁまぁかい。もうちょっと褒めてくれてもいいんじゃない?」

「私はビジネスに関しては余計な誇張や、えこひいきはしない主義なの。知ってるでしょう?人に評価を伝える時は実力以上でも実力以下でも駄目なのよ。世間では褒めて伸ばすっていう言う人がいるけど率直に伝えないとその人の為にはならない。お互いのビジネスにとって悪影響よ」

「さすが同期入社の出世頭は違うね」

「数日後に文章に写真を付けたレイアウトのゲラ刷りを送るわ。写真のチェックも終わったわよね?」

「あぁ、終わったよ」

「それなら一週間後には渡せると思うわ。言っておくけどゲラの校正は面倒臭い仕事だけど妥協しないでね。この前も言ったけど校正の最終責任者はあくまでも著者の海野くんだからね。何か疑問とか質問があったら遠慮なく率直に伝えてね。後になればなるほど直すのに手間や時間がかかることになっちゃうから」

「OK。分かったよ」

「それじゃ、ビジネスの話はここまでね」とチャイを飲んで溜息を吐いた。

「では内密の相談とやらを聞きましょうか。もしかして俺の告白を受け入れる気になった?」

彼女は飲んでいたチャイを吹き出してむせて「ちょっと急に何の話よ」と口元を拭いた。

「高校生の時、告白しただろう。もう十年ぐらい前の話だけど。俺の人生の歴史においては君は初恋の人という位置付けだからさ」

「あーそういえば告白されたわね。でもきっぱり言ったでしょう」

「うん言われたよ。あなたを恋愛の対象として見た事がないし男性として魅力を感じないから付き合わないってね。そのときはビジネスじゃなかったけど余計な誇張やえこひいきのない率直な意見を言われたよ」

「つまりは、そういうことよ」

「でもこういう事はないかな?十年の年月が経ち改めて海野元気という男の魅力に気が付いた」

「相変わらず、お気楽な人ねぇ。残念ながらその線はないから期待はしないでね」

「君が疲れた顔をしていたから冗談を言って和ませただけだよ」

「冗談でそういうこと言う人は嫌いよ。でもね、正直に言うと高校生の頃に比べれば頼り甲斐があると思ってるわ」

「本当?それは、朗報だね」

「それで折り入って相談なんだけど彼がいなくなったのよ」

「彼ってマエダのこと?」

「うん、そう」

「そうか。まだ付き合ってたんだ…」

 マエダの漢字はよくある「前田」とは書かずに「真江田」という珍しい書き方をする。フルネームは真江田慶士。彼も安寿と同じく地元紙の同期入社だった。ただ大学で二年ほど世界放浪の旅をして休学していたので年齢は自分よりも二つぐらい年上だ。

 新聞社では社会部に所属していた。社会部は報道の主流で新聞社では花形的な部署で事件や事故、社会問題や不正などを追う新聞記者の中のエースが集まる所だ。彼は男前でプライドが高い。女にももてるプレイボーイで挙句の果てに自分の初恋の相手である安寿とも付き合っていた。

「数日前から連絡が取れないのよ」

「それで俺にどうしろっていうの?俺も率直に言わせてもらうけど他の女の所に行ってるんじゃないの」

「浮気をしてても連絡は取れるでしょう?」

「それはそうだけど。あの女たらしの事だから、どうせ女のけつを追いかけてるんだろうさ」

「それなら、いいんだけど…」

「いいってどうこう事?良くないでしょう?」とその言葉に驚いたと同時に呆れた。

「生きてくれていればいいわ。今回は浮気とかそういうのじゃない気がするの。何だか嫌な感じがするのよ。いなくなる前に電話で誰かと何か妙な事を話ていたの」

「妙な事って?」

「幸村の怨念がどうのこうのって言っていたの」

「それがマエダの失踪と関係があるの?」元気は首を捻った。

「あの人、自分の事を真田幸村の子孫だって言っていたわ」

「同期会の飲み会でも真田幸村の末裔だと言っていたよ。あの時は、酔っ払いの戯言だと思っていたけど」と鼻で笑った。

「本人は本気でそう信じているのよ」

「馬鹿じゃねぇの。だいたいマエダは鹿児島出身だろう。全く真田幸村と関係ねぇだろう。困るんだよね、そういうの。最近の真田人気にあやかって、やりたい放題するのやめて欲しいよな。生粋の上田人の俺からすれば、はた迷惑だよ。若しかして安寿も信じてるの?」

「ノーコメントね。若しかして元気くんなら新聞社にいた頃にケイジと仲が良かったから何か知っているかなと思って聞いてみたの」

「仲がいいというか…マエダは人懐っこい性格だからな。確かにお互い妙に馬も合ったけど。俺は複雑な思いでつきあっていたけどな」と意味あり気な視線で彼女を見つめた。

「もし何か気が付いたことがあったら連絡して」

「分かったよ。でも警察に捜索願出した方がいいんじゃない?」

「もう出したわよ。でも捜索願じゃ警察は何も動いてくれないのよ」と首を大きく横に振って溜息を漏らした。

「確かにね。警察は事件が起きてからじゃないと動き出さないからね」

「だから凄く不安なのよ。何か事が起きてからじゃ手遅れでしょ。最近、上田城でも殺人事件があったばかりだし。もし彼の身に何かあったら…」と瞳から涙を零した。

 

第3章 真田昌幸の策略

 打ち合わせが終わってから、外に出ると小雪が舞い、うっすらと雪が積もっていた。師走の夕方、信州上田では、氷点下近くまで気温が下がっていた。安寿は、ヘルメットをかぶって、バイクに跨った。
「こんな雪の日にバイクを運転して危なくねぇかい?」
 元気は、心配して言った。
「大丈夫よ。私のカブちゃんは、ガタガタ道や雪道でもへっちゃらよ。郵便配達や出前の人も、バンバン運転しているでしょ。それじゃ、またね」
 安寿は、元気の心配をよそに、地面につけた片足を軸にして、エンジンをふかしながらくるっとターンしてから、颯爽と駐車場から車道に出ていった。
 全くのおてんば振りは、高校の頃から変わっていない。まぁ、それが彼女の魅力で、元気が惚れたのもそこにある。
 元気は、小雪舞う上田の街をのんびりと歩いて、家路に着いた。

 上田は、戦国時代に真田”昌幸”が築城した上田城を中心に発展した城下町だ。その為、日本各地の城下町と同じように、狭い路地や一方通行が多い。下手に車で一方通行の隘路(あいろ)に入りこもうものなら、戦国時代の徳川軍さながらに、惨敗を喫することになる。
 実は何を隠そう、元気も、その敗者のうちの1人だった。所有しているマイカーはRV車で小回りが利かない。
 以前、一方通行の隘路に迷い込み、車体を擦ってエライ目に遭った。その苦い経験から、駅前に出かける時は、なるべく車は避けるようにしている。さっきは、安寿に危ないと忠告はしたものの、雪が降っても、小回りの利くバイクを使いたいという気持ちは、よく分かる。
 上田の街を歩いていると、いわゆる”真田もの”が、最近、やけに増えている事に気付いた。歩道には、真田三代や、真田十勇士を説明した洒落た立て看板が立ち、商店街の軒先には、ポスターや書籍、真田氏に縁あるポイントが書かれた観光地図、真田関連のイベント案内など、”真田もの”が、氾濫していた。
 伊勢音頭に、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」という有名なフレイズがあるが、それに倣えば、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、信州上田は真田でもつ」と言った所だろうか。

 この真田人気は、21世紀に入って、さらにヒートアップしている。その大きな理由が、真田”幸村”を主人公にした、戦国武将のゲームやアニメの大ヒットだ。これにより、主に、若い世代や女性が、真田氏により興味をもち、上田を訪れる観光客が増えた。
 ただ、生粋の上田人からすれば、描かれている真田幸村のイメージが、かなり違う気がするのだが…幸村はあんなに美男子でもないし、背もでかくない…まぁ、そこは、上田という街に、おおいに活気を与えているという事で、妥協しておくとるするか。
 この真田人気を、さらに押し上げる為に、”大型ドラマを制作してくれ!”という実行委員会を作って署名活動をしたり、真田に縁のある各地方自治体の首長まで乗り出して、ロビー活動やPR活動をしているようで、かなりの力の入れようだ。
 実はこの真田ブーム、今に始まった事ではない。何と始まりは、江戸時代にまで遡る。
 大阪城”冬の陣”、”夏の陣”での”真田幸村”と家臣団の活躍を描いた講談が、大ブームとなり、幸村は民衆のヒーローとなった。ちなみに、講談というのは、落語のような”寄席”スタイルで、講談師が観客を前に、軍記物のストーリーに、面白可笑しく脚色をつけて話をするという話芸だ。
 その後、脚色は色を増し、猿飛佐助などの忍者も仲間に加わった真田十勇士のストリーが生まれた。
 そして、大正時代に入り、真田十勇士の活躍が書かれた立川文庫が出版されるに及び、真田人気は、さらにヒートアップした。昭和に入ると、小説や漫画、さらには、映画やテレビというメディアも登場し、”真田もの”が描かれて、その名は日本全国津々浦々、老若男女に、知れ渡ることになった。歴史は繰り返すという事を、”真田もの”が証明しているかのようだ。ちなみに、元気が生まれた1980年代半ばにも、某テレビ局で、「真田太平記」という池波正太郎の小説のドラマが、1年間ほど放送された。そのドラマの影響で上田の街がどう変わったのはかは、生まれたばかりだったので全く覚えていないが、今と同じように、”真田もの”で、街が賑わったことだろう。
 ちなみに、駅前通りに、15年ほど前に作られた池波正太郎記念館がある。だが、実はまだ入館したことはない。近所に住んでいるので、いつでも行けると思っているうちに、時間が過ぎて、結局行かずじまいになっている。表現は悪いが、このようなキャッチーな施設への地元民の関心は低く、来館率も悪い気がする。
 元気の人生の中で、特に印象深かったのは、1998年の長野オリンピックにあわせて新幹線が通った事だ。新しい駅舎や線路、道路を建設するため、上田の街が、どんどん壊されると同時に、どんどん創られた。その当時、小学生だったが、その光景を見て、慣れ親しんだ街が変わっていくことの寂しさと、新しい物ができるドキドキが、同居した複雑な想いだった。
 あれから、15年ほどの月日が流れて、もう少しで三十路を迎える。上田の街も随分と変わった。上田駅の近くや、郊外には、幾つかの巨大なショッピングモールや電気店が出来た。
 昔は、少し山の手の方に行けば、一面、リンゴ畑で、のんびりとした風景が広がっていたが、今では、すっかり変わってしまった。
 自分が過ごした街が、変わっていくのは、寂しくもあり、また楽しくもある。そういう人々の想いを受け止めつつ、これからも、上田の街は変わっていくのだろう。
 歴史を辿れば、現在の上田市中心部は、”幸村の父” である 真田”昌幸” が、上流域の真田の地から、城を移して城下町を造成するまでは、千曲川沿いの崖や沼地だった。
 ”昌幸”は、崖や沼を、天然の要害として利用して上田城を築いた。
 この”昌幸” の ”敵に攻め込まれ難い”というをコンセプトが、今の上田の発展に繋がっていると言っても過言ではない。
 ただ、現代の車社会からすると、非常に入り組んでいて運転し難い。
 もし、上田の街を訪れた際、一方通行の迷路にはまった時は、「真田”昌幸”の策略にやられた」と観念して、時間通りに目的地に付くのはあきらめて、先ずは、事故なく、無事に脱出する事だけを考えて運転する事をお勧めする。
 さもなくば、誰かさんのように、車を擦ったり、ぶつけたりして、泣きをみる事になるでしょうから。 

 

第4章 真田一族と天狗

 元気は真田氏記念公園に到着した。「真田氏発祥の郷」と刻印された石碑が芝生の上に建っていた。その書は「真田太平記」の著者、池波正太郎と言われている。真田町が町制発足25周年を記念して整備した小さな公園だ。

 松の下には真田幸村、父の昌幸、祖父の幸隆と真田三代のレリーフが刻まれた石碑が並んでいる。真田の郷は上田駅から北東に十キロほどの場所にあり車で二十分ぐらいだ。

 ここの公園から雪をかぶって真っ白になった真田の母なる山、四阿山が見えた。四阿山と書いてアズマヤサンと読む。信州と上州の国境にあり、深田久弥の日本百名山の一つだ。将に真田の母なる山だ。戦国時代に幸村もこの地から同じ山を眺めていたと思うと感慨深い思いがこみ上げてきた。真田の郷は四阿山に源を発する神川の扇状地にあり、上田駅から北東に10kmほどの場所で、車で20分ぐらい上った所にある。
 真田町は、2006年に上田市と合併してしまったので、真田の名前を冠した自治体はなくなってしまったが、住所は上田市真田町となっていて、真田一族に縁の史跡がたくさんある。
 真田本城の城跡、屋敷跡地にある真田氏歴史館、真田一族が弔われている長谷寺や信綱寺、真田忍者の修行の地として有名な角間渓谷や千古の淵など、真田ファンなら一度は訪れてみたい場所が散在している。
 真田町に足を向けたのは、次の執筆に向けて、天狗と真田一族の関係を調査するためだった。上田市の天狗伝説といえば、太郎山が有名だ。おまけに、太郎山では天狗石と呼ばれる六角柱状の石材が取れる。

 これは、柱状節理という熔岩が冷え固まってできた岩石で、かつて太郎山が火山だった頃の名残ともいえる。この天狗石は、綺麗な六角柱をしているので、昔から、神社や寺社の柱や石碑に利用されてきた。天狗からの贈り物という言い伝えから、このような名前になった。以前、太郎山の天狗伝説と真田一族の関係を調査したが、残念ながら、あまり関連はなさそうだった。
 その後、色々と真田町の地名や山名を調べると、天狗岩という場所が、真田町の傍陽地区の山中にあるということが分かった。そこにも、あとで行ってみたいと思っている。

 さて、もし、あなたが、天狗の住む場所は?と聞かれたら、何と答えるだろう。おそらく、多くの人が、”山”と答えるだろう。そして、それは、おおよそ正解だ。天狗は、山との結びつきが、非常に強い。何故だろうか?海でも湖でもなく、川でも里でもなく、”山”なのは何故だろうか?
 日本各地には、鞍馬山、高尾山、愛宕山と数え挙げるときりがないほど天狗伝説がたくさんある。信州の有名な場所を挙げると、飯縄山、浅間山、御嶽山、戸隠山、皆神山と、山ばかりだ。そして、面白い事に、これらの山々は、修験道の聖地でもある。

 天狗を調べていくと、否応なく、修験道と深いつながりに気づかされる。修験道を行う人達は、”山伏”と言われる。どんな格好をしているかというと、歌舞伎の「勧進帳」の弁慶の格好を思い出すとよい。多角形の黒い頭巾、大きなボンボリを付けた鈴懸という衣、手には金属の杖、そして、ほら貝を吹いて歩く。そして面白い事に、多くの天狗も、この山伏とおなじ服装をしている。
 修験道は、日本古来の自然崇拝をベースにして、神道や仏教、道教や陰陽道などが要素が交じり合った宗教で、霊山で厳しい修行を行う。
 仏教の修行の目的は、”悟り”を開きブッダとなり衆生を救うことだが、修験道の修行の目的は、「験力」(げんりき)という超能力を得て衆生を救うことにある。少し偏った見方だが、修験道の最終目標は、その字の如く、「験力」を修めて、天狗になることにある。
 修験道の開祖は、えんのおづの(役小角)という奈良時代の人物で、彼は修行によりこの「験力」を得て、飛行(ひぎょう)、つまり、空を飛ぶ事ができるようになったという。
 ただし、キリスト教のイエスしかり、仏教のゴーダマシッダールダしかりで、開祖の逸話には、後世で尾ひれ羽ひれがついて、その超人ぶりが強調されるのは、宗教の常だ。
 修験道も然りで、修行の大きな目的は、自然の中での厳しい修行を通して、心身を極限状態に置き、世俗に塗れた心をリセットすることにある。
 人間は、基本的には主観的な生き物で、自分が一番かわいいものだ。客観性や論理性が大切だと理屈では分かっていても、自分の立場を離れて、冷静に自分を見つめるのは、非常に難しい。
 だが、修験道の修行をすることで、世俗に塗れた”自分”という存在が一旦ゼロに戻り、改めて自分を客観的に見つめ直す事ができるようになる。いうなれば、心の洗濯だ。開祖の役小角にならい、修験道は在家主義のシステムとなっている。つまり、仏教の僧侶のように、宗教の専門職を作らずに、実生活を営みながら修行するスタイルだ。実生活と修行の二つの世界を、行ったり来たり出来る所が大きな特徴だ。
 多くの宗教では、在家信者は、僧侶や牧師に教えを受け救いを求める。その対価としてお布施や寄付を渡す。しかし、修験道では、自分を救うのは自分自身の修行だ。修行の指南や助力にたして対価は払うが、あくまでも修行を実践する事が重要だ。そのような実践性が、ストイックな日本人に合っていたのも幸いし、修験道は、時代を経るにつれ、日本各地に広まった。そして、それと同時に、民衆の間に天狗信仰が広がっていった。
 修験道に、壊滅的な打撃を与えたのが、明治政府だった。天皇による中央集権化を進める為、政府は神仏分離令を出し、これにより、神社と仏寺が明確に分離された。
 さらに、民衆の宗教を弱体化させるため修験禁止令を出し、修験道そのものを禁止した。当時の日本の人口は3300万人程度だったのに対して、修験道の教徒数が17万人ほどといわれている。驚くべき事に、約0.5%の日本人、つまり200人に1人が厳しい山岳修行をしていたという計算になる。

 富国強兵、殖産興業を推し進める明治政府から見れば、生産や軍事に寄与しない山伏たちは、邪魔者以外の何者でもなかった。徳川幕府のキリスト教に対する宗教弾圧はよく知られているが、実は、明治政府の宗教弾圧はあまり知られていない。奈良時代から江戸時代の永きに渡って日本人が心の拠り所としていた神仏習合の宗教を引き裂き、修験道を禁止した。
 つまり、日本国民を、”天皇一神教”に洗脳する為に、多くの神々が殺された。明治、大正、昭和と、”天皇一神教”で突っ走ってきてきた日本国民は、論理的な思考能力を失い、戦争に突き進み、多くの国民が、”天皇陛下、万歳”と叫んで、戦火の塵と消えた。
 やがて、ポツダム宣言を受諾し、敗戦。天皇の人間宣言により、日本人が心の拠り所としてきた”神”は、連合国軍により殺された。
 古来、日本では、鼻の高い白人系民族は、天狗や鬼と呼ばれてきた。その天狗によって信教の自由が保障され、修験道が復活したのは、歴史の皮肉のように思える。アイロニカルに言えば、「天狗により、天狗が解放された」と言える。明治政府の宗教弾圧により、修験道は壊滅的な打撃を受けた。しかし、細々と生きながらえてきた。そして、戦後の解放から現代にかけて、徐々に復権しつつある。今この瞬間においても、山岳聖地において、誰かが、修行を行っている。
 修験道には、いくつかの裏の顔があった。その一つが山岳ネットワークだ。前述の山伏の説明の所で、源義経と弁慶が山伏の格好で逃亡していた話をしたが、何故、義経たちは、山伏の格好をして逃亡したのだろうか?普通に考えると、庶民の格好よりも明らか目立つ。人目を忍んで、こっそり逃げるには逆効果だ。にも関わらず、山伏に扮していたのは、関所を通過できるという特権が与えられていたからだ。

勧進帳の一幕で、弁慶は関守に以下のように要求する。
「我々は、平家一族によって焼き討ちにされた東大寺を再建する為、津々浦々を回って寄付(勧進)を集めている勧進聖(かんじんひじり)なので、関所を通しなさい」
「勧進聖であれば、勧進帳を持っているだろうから、それを読みあげろ」
 関守は、弁慶に言い返した。
 弁慶は、勧進帳を持っていなかったが、空白の巻物を広げて、勧進帳を諳んじる事で、関所を通る事ができた。ちなみに、勧進帳というのは、寄付の背景や目的を説明した巻物状の趣意書の事で、寄付を募る為の証明書のようなものだ。
 勧進帳の話に脱線したついでに、もう少し脱線して義経の話をすると、子供の頃、牛若丸と呼ばれた義経は、7歳になると、僧侶になる為、京都の鞍馬寺に預けられた。鞍馬寺は、天狗の総元締めがいたという伝説がある修験道の聖地で、本場中の本場だ。
 義経は、鞍馬天狗に剣や兵法の修行を受けて成長し、15歳になる頃、寺から忽然と姿を消し、奥州藤原氏のいる平泉へ旅立つ。義経を連れ出した人物は、金売り吉次と呼ばれた黄金商人で、この時に、使われたのが修験道の山岳ネットワークだった言われている。このネットワークという言葉には、単に地理的なルートという意味だけでなく、人的なネットワークという意味も含まれている。
 鉱脈を探す職業は、山師と呼ばれるように、山には鉄や金などの鉱物がある。特に、奥州平泉は黄金の都と呼ばれ、奥州には豊富な鉱物資源があった。そのため、産鉄や冶金を生業にした民や、黄金商人などの流通の民は、山岳ネットワークと深く結びついていた。
 義経が鞍馬天狗から修行を受け、武芸や兵法を極めて壇ノ浦で平家を滅ぼしたように、修験道は宗教としてだけでなく、武芸や心胆の修行も兼ねていた。
 それは、鎌倉時代、室町時代と時代を経ても、面々と民衆に受け継がれ、よりレベルアップし、戦国時代には忍術に進化し、それを修めた者は、やがて、忍者と呼ばれるようになった。
 戦国武将は、忍者たちの山岳ネットワークを活かした諜報力、忍術という類稀な戦闘能力に目を付けて、家臣として召抱えた。有名どころで言えば、服部半蔵、風魔小太郎などがあげられるが、それ以外にも多くの忍者が、戦国武将の家臣となった。
 真田一族も、非情の戦国の世を生き抜く為に、忍者軍団を召抱えた。そして、忍者たちが、修行したのが真田の郷から程近い角間渓谷だ。真田十勇士の猿飛佐助や霧隠才蔵のモデルとなった忍者たちが、修行をしたという伝説が残っている。
 四阿山から吹いてくる、風が冷たい。元気は、目を細めて、乳首のような形で、澄んだ青空を指差す四阿山を眺めた。古くから修験道の山と崇められ、山頂には、修験道の白山大権現が祭られている。
 真田一族も、氏神として祭った神社だ。戦国の世を生き残る為に、あずまやさんの天狗と呼ばれた修験道と親交を深め、山岳ネットワークの情報や人材をフル活用した。特に、”幸村の祖父”である”幸隆”は、山岳ネットワークを利用し、諜報や調略を駆使し、戦国武将としてのし上った男だ。真田一族を理解するにも、また、真田一族と天狗の関係を探るにも、先ずは、戦国武将として、実力で伸し上がった真田”幸隆”を理解しない事には、先に進まない。
 元気は、”幸隆”のレリーフの前に立ち、パンパンと拍手を2回鳴らし、「調査が上手くいって、面白い本が出せますように」と手を合わせた。

 

第5章 白山様とヤマトタケル

 白い軽トラックが公園の前の停まり初老の男性が出てきた。

「オレは眞田だ。あんたが電話くれた海野さんかい?」

「はい、そうです。お忙しい所すいません。今日はよろしくお願いします」とお辞儀をした。元気は数日前に郷土史家である眞田今朝雄さんに電話して取材のアポを取り付けた。彼は真田郷に住んでいて区長もしている方だ。

「退職して暇な身だから、忙しくはねぇだよ。そしたらよ、オレんちに行くから車で後ろに付いてきれくれや。村ん中は細い道が多いもんで気を付けてくれや」

「はい。分かりました」と言って車に乗り込み眞田の車について行った。国道144号線を菅平方面に進んでから路地を曲がり真田地区の集落に入った。狭い上り坂を上ってしばらくして彼の家に到着した。

「そしたら。あんたは車をここに置いてオレの車に乗ってくれや」と眞田は運転席の窓を開けて声を掛けた。

「はい分かりました。遠いんですか?」

「遠くねぇよ。直ぐそこだに。歩いてもいける距離なんだけんど、やっぱり寒いでよ。所であんた靴は大丈夫かい?」と眞田は元気の靴を見た。

「一応、冬靴なんで滑りづらいですけど」と足を上げて見せた。

「そんな靴じゃ駄目だ。駄目だ。雪が積もってる所を歩くで長靴にしねぇとな。ちょっくら待ってろや。確か小屋にあまってる長靴あったのう。あんた靴のサイズはいくらだい?」

「二十六センチです」

「オレと大して変わらなねぇから大丈夫だな」と眞田は車から下りて小屋に長靴を取りに行き黒い長靴を持ってきた。

「ほれ履いてみ。穴は開いてねぇからよ」

 元気は受け取った長靴に履き替えた。

「ありがとうございます。ぴったしです」

「そうか、そりゃ良かった。そしたら出発するで車乗ってくれや」

 助手席に乗り込むと眞田は車を出発させた。

「先ずは白山様に挨拶に行くかいのう」と眞田はハンドルを握りながら呟いた。

「白山様っていうのはここら辺で偉い人なんですか?」

「人じゃねぇだよ。神様だよ。ここら辺じゃ山鹿神社の事を白山様って言うだよ」山鹿と書いてヤマガと読む。

「へぇそうなんですか?若しかして四阿山の修験道と関係があるんですか?」

「ほう、おめぇさん。結構、勉強してるじゃねぇだかい」

「物書きの端くれなので少しは勉強していますよ。祭神も白山権現なんですかね?」

「確か祭神は大乃国みたいな名前の神様なんだけんど…」

「それは昔の横綱ですよ」と元気は思わず笑った。

「ああ、そうだいな。何だっけな?」と眞田は無精ヒゲを掻いた。

「若しかして大国主命ですかね?」

「あぁそれだそれ。確かそんな名前だに。それ以外にも何とか姫っていうのも祭られてるだ。だけんどオレのように氏子でも祭られている何とかのミコトってのはあんまり覚えてねぇだよ」と豪快に笑った。狭い路地を車で数分走りヤマガ神社に到着した。眞田は古い鳥居の前で立ち止まり背筋を伸ばして柏手をした。元気も倣って柏手をした。

「ここの創建は古くて元来は四阿山を神として崇めていただよ」

「それは面白いですね。奈良にあるオオミワ神社も三輪山を御神体にしています。それと同じなんですね」

「うん。オレが思うに本来どこの神社も根源的には自然崇拝が根源にあるだな。例えばお社がある場所と言うのは、ちょっとした高台や湧水がある場所に多い。こういう場所は昔の人が洪水や津波になったときに避難できて水も確保できる。東日本大震災でも沿岸部に昔からあった神社は津波の被害が少ないが近代になって自然の事を何も考えずにつくった神社は流されているそうだ」

「なるほど。現在の価値観でいうとご利益といえば個人の私利私欲を叶えてくれるかどうかですが本来は大きな自然災害があった場合に命を繋げるかどうかにあったということですね」

「そうだに。だからこそ大樹を御神体として祭ったり周囲の森を『鎮守の森』として大事に保護しているだよ。森を大事にする事で湧水が涸れないようにしているだよ。その地に生きる人の知恵だいな。所で海野さんはヤマトタケルを知っているかい?」

「知ってますよ。大和朝廷の皇子でクマソを討伐したという伝説がありますよね?」

「うんそうだ。さらにヤマトタケルにはクマソを討った後に東征をしたという伝説がある。ヤマトから見ればここも東国で侵略される方だから迷惑千万なんだけんどな。それは置いておくとしてだ。ここヤマガ神社にもヤマトタケルが上野の国から鳥居峠を越えてここを通った時に神社の井戸水を飲んで休んだという伝説がある。ほれそこだ」と眞田は参道の先にある小さなお社を指差した。

「ここでヤマトタケルが水を飲んだんですね。でもヤマトタケルも人間ですから日本の至る所で水を飲んでいると思いますけどね」と少し皮肉を言いつつ井戸を覗き込んだ。深くて暗い。何だか吸い込まれそうな不気味な闇が見えた。

「伝説として今日にまで残ったという事は裏を返せば話を伝える地元の人々がそれを自慢したい、言い触らしたいという気持ちがあったつう事だ。ここの井戸水がオラが自慢の水で箔をつける為にヤマトタケルという古代のアイドルを広告塔にしたという所だろうな」

「面白い視点ですね」と頷いた。

「ヤマトタケルはここで休んでから、ちょっくら離れた竹室の里で枝や柴などを使って借りの宿を作ったっつう伝説がある。その時の足跡が今も残っていて神足石と呼ばれてる」

「人間が岩の上に乗ったからって足跡が付くんですかね?」と大袈裟に驚いてみせた。

「オレも1回だけ見た事はあるけんど横に長い窪みが石にあるだけで足跡にはみえなかったけんどな。人っつのは噂話や誇張が好きだから後世になって尾ひれが付いたんだと思うけんどな。ただ、ヤマトタケルの影響は21世紀の現代でもしっかりと残っている」

「それは伝説以外にもという意味ですか?」

「そうだ」と強く頷いた。

「例えばどんな?」

「先ず例に挙げるのは四阿山だ。オラほの白山様でご神体としている四阿山はヤマトタケルと大いに関係あるだよ」と自慢げに目を光らせた。

「でも四阿山のアズマヤというのは、よく庭園とかにある休憩所の建物のことでしょう?柱と屋根だけで壁のないやつ。その形に似ているから四阿山っていうんじゃないんですか?」

「まだまだ勉強不足だな、あんた。ヤマトタケルは東征の途中、今の東京湾付近で嵐に遭い最愛の妻であるオトタチバナ姫を亡くした。そして鳥居峠を上った所で関東平野を眺望しながら「あづまはや」と姫を偲んで叫んだという伝説がある。その事から、その峠の近くに聳えている山をアヅマ山。その平野を流れる川をアヅマ川と名付けられた。今でも上州では吾妻山と呼んでいる。つまり四阿山の名付け親がヤマトタケルで、それを我々は今でもそう呼んでいるっつう事だ」と眞田は勝ち誇ったような目をして、どうだ参ったかといわんばかりに胸を張って見せた。

「はぁ、そうなんですか…」と元気は口をへの字に結んだ。自分は若造とはいえ歴史や伝説を飯の種にして生きて行こうとしている文士の端くれ。こちらにもプライドがある。取材元の機嫌を損ねてはいけないと敢えて論戦は避けていたが馬鹿にされてばかりではなめられるので「でも、おかしいですね」と論戦の火蓋を切った。

「何がおかしいだ?」

「数年前に軽井沢の碓氷峠にある熊野神社に行った時に見ましたがヤマトタケルが「あづまはや」と嘆いたのはこの場所だと社伝に書いてありましたよ。鳥居峠というのは初耳ですね」

「確かに日本書記にはヤマトタケルが「あづまはや」と叫んだのはウスイの坂と書かれてあるがウスイの峠とはどこにも書かれてない。峠という言葉は街道が整備された江戸時代に出来た言葉でヤマトタケルが生きた二世紀頃は道なき道。あっても獣道みたいな道を進んだと考えるのが普通だろう」

「峠という言葉はなかったかもしれませんが坂が峠と同じ意味で使われていたとすれば、やはりウスイと言うからには今のウスイ峠と考えるのが普通なんじゃないんですか?」と食い下がった。

「ふっふっふ、海野くん。甘いなぁ」

「何が甘いんですか?」

「現在、神社が鎮座している場所はいつからウスイ峠と呼ばれるようになったか知っているかい?」

「いえ知りませんけど…」

「あの場所がウスイ峠と呼ばれるようになったのは中仙道が整備されてからだ。江戸時代になって幕府が険峻な峠道の方が関所で通行人を管理しやすいから、そのルートをメインの街道として指定しただよ。それ以前は東山道ルートが主流で今の入山峠が信州と上州の道だったんだ。こっちの方が通り易いから地元の庶民や輸送はもっぱら入山峠を利用していただよ。それが入山という名前につながっている。ちなみに昭和になって碓井バイパスが入山峠に開通してからは自動車がガンガンこの道を走るようになった。歴史が巡ってメインの道として復活したっつう事だな」

「ということは現在の入山峠がウスイの坂かもしれません。でも鳥居峠ではないという事ですよね?」

「そう結論をあせるな。ヤマトタケルが「あづまはや」と叫んだ場所が現在の鳥居峠だという事を裏付ける事はたくさんあるだよ。先ず鳥居峠という名前だ。これは峠のある場所に鳥居が置かれていたから後世になってそう呼ばれるようになっただよ。日本全国には鳥居峠という名前の峠はたくさんある。そして厄介な事にウスイという地名も日本全国にはたくさんある。と言うことはヤマトタケルが通った可能性があるウスイの坂の候補はたくさんあるっつう事だ。ここからが本題だが上州のアヅマ地方の人達は鳥居峠の事をつい最近までウスイ峠と呼んでいただよ。これはオレの仮説だが長野に入るような急な坂がある場所をウスイ、若しくは、原典にちかい発音のウスヒと言ったんではないかと思う。そして最後のダメ押しとして日本書紀には「西のウスヒの坂」とかいてある。つまりウスヒの坂の中でも『西』と明記してあると言うことは最も西にある現在の鳥居峠こそがウスヒの坂に間違いない」と自慢げに微笑んだ。

 山鹿神社の境内に入った後、拝殿の前で靴を脱いで階段を上がり賽銭を投げ込んで柏手を打った。眞田が深々と頭を下げてから拝殿の中を見つめながら言った。 

「時代が変われば、地名も変わるのは世の習いだ。ちなみに今ではここ真田の地も長野県に属している。しかし昔は長野のナの字もなかった。海野くん、長野県が昔は何の国と言われていたかは知ってるだろ?」

「それくらい長野県民だったら誰だって知ってますよ。シナノですよ信濃。学校でも県民の歌である信濃の国を歌いますよ」

「そうだに。それではその信濃の中心地はどこだったかは知っとるだ?」

「上田です。上田には古くから国府や国分寺が置かれていましたからね」

「正解だ。つまりはヤマトタケルの時代にシナノに入るというは上田に入るということだ。日本書紀ではヤマトタケルはウスイの坂で配下の武将であるキビのタケヒコをコシの国、今の新潟に派遣して彼自身はシナノの国に入ったと書かれている。想像するにキビのタケヒコは現在の菅平から大笹街道を通って北上し須坂に下りてから上越方面に向った。そしてヤマトタケルは真田郷を通って上田に入り諏訪へ向かった。それを裏付けるように吾妻地方から上田そして諏訪に掛けてヤマトタケルの伝説の地が点々と繋がっている。一方、現在のウスイ峠から入ったならば軽井沢から佐久にかけてヤマトタケルの伝説があってもいいようなものだが全くない。あるのは江戸に入ってから出来た熊野神社だけだ」

「もしかしらたらヤマトタケルは休みなしで一気にウスイから上田まで行ったのかも知れないですよね」

「その理屈はちょっくら無理があるな。また熊野神社の社伝にも無理がある」

「どこに無理があるんですか?」

「社伝ではヤマトタケルが峠道で濃霧に迷った時にヤタガラスが現れてナギの葉をくわえて道案内をして無事に辿りついたというストーリーになっている」

「ナギの木?長野では見たことないですね」と首を捻った。

「見たことないのは当然だ。熊野神社の発祥の地である紀伊半島などの温暖な地域にしか生息しない木で長野周辺では寒くて生きていけない。つまり存在しない木の葉をどうやってくわえるっていうのかな」

「そういわれると無茶くちゃな気がしますね。せめてシナの木とか白樺の葉っぱにしておけばよかったのに」

「さらに強引なのはヤタガラスだな。ヤタガラスが道案内をするというストーリーは、神武天皇の神話と同じだ。いうなればテレビドラマの水戸黄門の印籠みたいなものでワンパワーンのストーリーの中に無理やりヤマトタケルを組み込んでいる」

「そう言われると確かにあからさまな脚本という気がしますね」

「さらに決定的なのは軽井沢の碓氷峠からはアズマ山が見えない。軽井沢のウスイは全くアズマと関連がないだよ」

「確かにアズマとは関連がない気がしますね。妙義山の眺めは良いですけどね」

「観光地としては客を呼び込むに為に古代のスーパースターを広告塔に立てるというのは常套手段だからのう。それを全否定して糾弾するつもりはない」

「それは現代でも同じですよ。上田市での真田町でも真田幸村を広告塔に立ててエンヤワンヤとやってますからね。それに僕自身も英雄の歴史や伝承をネタにしてお金を貰っている訳ですから似たものですよ」

「オレも定年で教師を退職してからは郷土史家という肩書きでやっとるから同類だに」と元気と眞田は顔を見合わせて苦笑いした。

「所で海野くんの出身はこっちかい?」

「はい。上田生まれの上田育ちの上田人です」

「ほう。それならあんたもヤマトタケルの影響を受け続けている現代人の一人だな」

「ヤマトタケルの影響を受けている?別に受けていないと思いますけどね…」と言ってから口を噤んだ。元気は正直な所、ヤマトタケルの話題を終わりにして本題の真田の話題に戻りたかった。興味なさ気に彼から視線を外して境内の杉の大木を見つめて頭をボリボリと掻いた。

「この海も野となれ!」と眞田が急に大声で叫んだ。元気は驚いて仰け反りしりもちを付いた。転んだまま眞田を見るとしたり顔で白い無精ひげを弄りながら目を光らせた。一体何者だ。このジジイはと少し恐怖を覚えた。

 

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