第25章/乳房の感触

 年代物の路線バスにはクーラーがなく、ガラス窓を全開にして、天井の扇風機を回していた。市内を15分ほど走ると郊外へ出た。濃い緑の山々が左右に迫ってきた。
 やがて、蛇行した上り坂を進んで行くと、県境の矢立峠(やたてとうげ)へと差し掛かった。矢立峠は、羽州街道、随一の難所として知られ、古から行脚者泣かせの天然の要害だった。しかし、それは今や昔、交通機関が発達した現代では、簡単に越えられるようになった。
 明治から昭和にかけての鉄道全盛時代には、デコイチ三重連の名所として名を馳せた。しかし今、矢立峠にSLの姿はない。主役は完全に自動車となり、引っ切り無しに往来している。
 バスの車窓から森然独屹(しんぜんどっきつ)とした秋田スギが見えた。秋田スギは、青森ヒバ、木曽ヒノキと並んで、日本三大美林と称されている。かつての矢立峠は、秋田杉の一大産地として有名だった。しかし、戦中戦後の乱伐によって、天然秋田杉は壊滅的な状態になった。さらに、効率重視で進められた林野庁の植林政策が、天然杉を根こそぎ切り倒してしまった。この愚行により天然秋田杉は、僅かに点在するのみとなった。この状況は矢立峠だけではない。日本全国に馬鹿の一つ覚えで、杉や檜を植林していった林野庁の功罪は大きい。

 矢立峠を過ぎて、5分ほどで、目的地の相乗温泉に到着した。下車すると、レジャープールの方から、楽しげにはしゃぐ歓声が聞こえた。門を抜けると、サルビアの花壇が真っ直ぐ伸びていて、真紅の絨毯のようだった。愛想笑いの上手な受付嬢に料金を支払って館内へ入った。

「せば、更衣室を出た所で待ち合わせするべし」芹奈が言った。
「了解、せば、プールサイドでな」岳実は言った。
「あっ、ちょっと待って。このシャチくんを、二人で膨らませておいて。これが空気入れ。この蛇腹(じゃばら)を踏んで空気を入れて」
 洋子が、スポーツバックの中からシャチの浮き具を出した。1m以上もある大物だった。

 洋子たちと入口前で別れ、更衣室へ入った。慎一郎の水着は、シャキモコではなく海パンだった。灰色に黒の縦縞という地味なパンツだった。その地味さが、引き締まった彼の体を引き立てていた。
 着替えが終わり更衣室を出た所で、空気入れの蛇腹を踏んでシャチを膨らませた。汗をにじませながら、しゃかりきになって踏んだ。その間、洋子がどんな水着で出てくるのかと妄想を膨らませていた。しかし、洋子たちは、直ぐに出てこなかった。
 シャチを膨らませながらプールの方を眺めた。シャキモコを穿いてきているのは小学生ぐらいだった。もしシャキモコを穿いてきていたら、洋子に変態扱いされていたかも知れない。

 「お待たせ」という声に振り向くと、二人が水着姿で立っていた。残念ながら想像していたビキニではなく、背中が開いているワンピースの水着だった。腰周りにフリルが付いていて、パステルカラーのイルカが水着の中で泳いでた。
 洋子がシャチの顔を覗き込んで言った。
「もう少しだよ、タゲ。頑張って膨らませ」
「ほれっ、もっと気合入れでやれ」芹奈が、岳実の背中を叩いて、発破(はっぱ)を掛けた。
「さっきから、気合入れてやってらよ。膨らんでも、あんまり重い人が乗れば、沈んでしまうがも知れねぇなぁ」岳実は、皮肉を言った。
「ほう、それは誰のこと?」芹奈が挑戦的な目で睨んだ。
「冗談です、冗談」
「ヨッコ、今の言葉は乙女に対する侮辱だよね」
「んだな、デリカシーのない一言だな」
「ヨッコさ喋った訳でねぇよ」と、大袈裟に手を振って否定した。
「せば、私に言ったってことだな」
 芹奈が、不敵な笑みを漂わせてギロッと睨んだ。目蓋がひくついていた。本気で怒った時の癖だった。

 芹奈が詰め寄ってきた。平手打ちが飛んでくるかと思った。
「タゲは、もっと筋肉をつけた方が良いんでねぇの」
 芹奈が、吐き捨てるように言い、あばらの皮をギュッと、抓(つね)った。
「痛てぇ」
「罰として、一人でシャチを膨らませて。さっ、慎ちゃん、行くべし」
「ええー、マジで。勘弁してよ。我が悪がった、許してぇ」
 懺悔の言葉も虚しく、一人でシャチを膨らませる羽目になった。全身汗だらけになって空気を入れた。膨らませたシャチを抱えてプールに行くと、3人は、のんびりと準備体操をしていた。既に岳実は全身汗だくで、準備体操は必要なかったが、3人に交じって準備体操をした。

 体操をしていると、洋子が、岳実を見てクスクス笑い出した。
「なしたヨッコ?若しかして、パンツが派手過ぎたが?」岳実は、尋ねた。
「違うよ、タゲの日焼けのラインが可笑しくって」
「あれ、なして我だけ、こんたに日焼けのラインが目立ってらんだ?」と不思議に思い、岳実は慎一郎を見てみた。
 日焼けのラインは地黒の肌に隠されていた。芹奈と洋子も、首や腕のラインは目立たなかった。
 しかし、足首だけは、日焼けラインが瞭然とし、肌色のソックスを履いているようだった。
「ヨッコも、足首のラインが目立ってらよ」岳実は、洋子の足首を指差した。
「ちゃんと日焼け止めを塗ってだから大丈夫だよ。あれっ、本当だ。そういえば、足首さは塗ってねがったなぁ」洋子は、快活に笑った。

 レジャープールには、色々な種類のプールがあった。子供用の浅いプールでは、老若男女が楽しそうに、浮き輪や浮き具を使って遊んでいた。水が穏やかに回流しているドーナツ型のプールや保温用のジャグジーもあった。水遊びの好きな人間には天国のような場所だった。
 岳実たちは、童心に返って、シャチに乗ったりビーチボールバレーをしたりして遊んだ。高台から滑り降りるウオータースライダーもあった。下から見上げると、かなり高さだった。裏手に建っている5階建ての温泉宿と同じくらいの高さがあった。

 芹奈が、ウオータースライダーをやりたいと言い出した。”馬鹿と煙は高い所が好き” と言うが、芹奈は子供の頃から、木登りや屋根上りなどが大好きだった。高校二年生になっても、そのお転婆ぶりは変わっていない。
 滑り台の階段を上がって行くと行列が出来ていた。行列の殆どは子供だった。その目は、「いい年して、ウオータースライダーをやるのかよ」と言っていた。最上段は屋根がなく下が丸見えだった。下から見上げた時よりも高く感じた。
 プラスティック製の太いパイプは透明で下が透けて見えた。それは、巨大怪獣の腸を連想させた。芹奈は、いの一番で歓声を挙げて、ウオータースライダーを滑り降りていった。その後、慎一郎が滑り降りた。3番手は洋子だったが、滑り口で立ち止まったままだった。
「実はヨッコ、高い所が苦手なんだ」降り返った瞳が少し潤んでいた。
「滑るのは止めて、階段で下さ戻るか?」
「それは、ちょっと、恥ずがしいな」
「せば、一緒に滑るか?我の背中さ掴まれば恐くねぇべ」
 柔和な笑顔で微笑みかけると、洋子は不安そうな瞳で頷いた。洋子が、胸を反らせて深呼吸をした。一瞬、その顔がキスをせがんでいるように見えて、心臓がドクンっと言った。
 ソリに乗るような格好で滑り口に座った。洋子が後ろから手を回し、岳実の背中にギュッとしがみ付いた。手が微かに震えていた…
 背中に胸の膨らみを感じると、鼓動が激しくなった。洋子の手の上に自分の手を置き、「行くよ、ヨッコ」と声を掛けてから滑り下りた。絶叫が耳に響いたが、それよりも、背中に感じる乳房の感触が、気になってしょうがなかった。
 ウオータースライダーのラストの直線でスピードを上げ、水面に大きな水飛沫を上げて着水した。水面に顔を出すと、少し遅れて、洋子が顔を出した。二人は顔を見合わせて笑った。

 その後、洋子を何度かウオーター誘ってみたが滑ったのは一回きりだった。無理に誘うと下心が見透かされそうな気がしたので、やめた。対照的に、芹奈は何度も滑っていた。芹奈に付き合わされて岳実も何度も滑らされた。
 洋子はプールサイドのベンチに座り、岳実たちを見ていた。岳実は、洋子を笑わせようと、着水時に、派手なポーズを取ったり、豪勢に水飛沫を上げた。岳実は、ヘッドスライディングの格好で滑り下りた。サーフボードのように水上を滑走すると予想していたが、それに反して、顔面から水に突っ込み、鼻や口から水が入った。大量の水を飲んで、もがいている内に前後不覚となり、本気で溺れるかと思った。鼻水を垂らしながら咽(むせ)こんだ。
 プールサイドで、洋子が笑い転げていた。芹奈や慎一郎も一緒になって笑っていた。

 第25章 終了