第26章/キッス

 ウオータースライダーの後は、慎一郎のリクエストで競泳用プールで泳いだ。負けず嫌いの芹奈は、泳ぎの上手い慎一郎に対抗心を燃やして、競って泳いだ。
 岳実は、疲れたのでプールサイドのカフェで、洋子と一緒に休憩した。円卓には日除けのパラソルが付いていた。
「タゲは、何飲む?」洋子が尋ねた。
「レモンティーにしようがな、ヨッコは?」
「アイスコーヒーが良いかな」
「せば、我が注文してくるよ」と席を立ちカフェのカウンターに向った。
 中年の女性の店員が素っ気ない態度で、グラスとストロー、ポーションパックのクリームとシュガーを、お盆に載せて差し出した。
 テーブルに戻ると、洋子は頬杖を付いてプールの方を眺めていた。スパンコールのようにキラめくプールを背景にした洋子の横顔が美しかった。
「お待たせ」とアイスコーヒーを洋子に渡した。
「ありがとう。お金は後で払うね」
「いいよ。おごるよ」
「んだば、お言葉に甘えて、ご馳走になります」洋子は恭(うやうや)しい仕草でお辞儀をした。

 岳実は紅茶にシロップを入れて飲んだ。甘みが足りない。もう1個シロップを貰ってくれば良かったと思いつつ、洋子を見た。洋子はブラックでコーヒーを飲んでいた。
「ヨッコは、ブラックで飲めるんだな」
「コーヒーはやっぱりブラックでしょ。若しかして、タゲはブラックで飲めねぇの?」
「ブラックっていうよりコーヒーが苦手だな。だって、無意味に苦いんだもん。所で、ヨッコのシロップ貰っていいが?」
「うん、いいよ。どうぞ」岳実は、2個目のシロップを入れて飲んだ。
「そんなに入れて甘くない?」
「2個で丁度良いよ」
「タゲって、お子ちゃまだね」
 洋子はクスクス笑った。
 『お子ちゃま』は、言われ慣れた言葉だったが、わざと拗ねた振りをして口を尖らせた。すると、岳実の表情を見た洋子が、腹を抱えて笑った。
「そんたに可笑しい?」
「ごめん。タゲって童顔な上に、味覚もお子様なんだって思ったら、可笑しくて。ごめん、ごめん」洋子は涙目になって笑った。
「んでも、そんたに笑う程、甘くねぇよ」と言い訳をした。
「シロップを2つも入れたら甘いに決まってるべっしゃ」
「なんも、丁度良い甘さだよ」
「せば、ちょっと味見させて」
「うん、良いよ。残り少なねぇから、全部飲んでいいよ」
 グラスを洋子の前に差し出した。岳実の使っていたストローを咥えて紅茶を飲んだ。その行為に、岳実はドギマギした。
 洋子が、レモンティーを飲み切った。
「やっぱり甘い。お子ちゃまの味だな」と唇の間から舌をチョロリと覗かせた。
「底の方さ、シロップが沈んでだからだびょん」と言い訳した。
 洋子は、ストローでグラスに残った氷を掻き混ぜて、カラカラと音を立てた。氷の音を聞いて、岳実は全部飲んで良いと言った事を後悔した。もし、レモンティーが残った状態で返してもらえたら、何気ない素振りで、洋子が口を付けたストローを咥えることができたのに…
 そんな下心を知ってか知らずか、洋子はストローで氷を回して音を立てた。
 岳実は、恨めしい想いで、氷音を聞いた。
「タゲも、コーヒー飲んでみる?」洋子が、からかった。
 岳実は迷った。洋子のストローは、トロけるほど魅惑的だったが、コーヒーは、鼻から火が出るほど嫌いだった。小学生の頃、芹奈に馬鹿にされたのが悔しくて、一気飲みしたことがあった。そのあまりの苦さに吐き気がした上に、頭が痛くなたった。本音は、『ストローだけ頂戴』と言いたかったが、そんな変態丸出しの言葉は、言えなかった…
「お子ちゃまのタゲには、コーヒーは無理だったね」
 洋子が、挑発的な視線で笑った。岳実は、腕組みして考えた…これは、洋子と間接キッスができる千載一遇のチャンスだ。くそ不味いのは一瞬だが、間接キッスの味は一生ものだ。
「せば、一口だけちょうだい」
「うん、いいよ。どうぞ」
 洋子は、ためらいもなくグラスを差し出した。洋子が口を付けたストローが目の前にあった。心臓がバクバクと騒いだ。岳実は唇を当てて、ストローに舌を這わせた。このまま、ストローをしゃぶっていられたら、どんなに幸せだろう。しかし、しゃぶり続けていたら本当に、変態だと思われてしまう。
 岳実は、意を決してコーヒーを吸った。苦く酸っぱい味が口全体に広がって、焦臭い香りが鼻を突いた。極上の不味さだったが、ストローは咥えていたかった。目を瞑って、更にコーヒーを飲んだ。最高にまずいが、ストローは離したくない。ジレンマと戦いながら、ちょっとずつコーヒーを飲んだ。
 洋子が、腹を抱えて大声で笑った。
「何が可笑しいの?」
「だって、凄い顔して飲んでるんだもん。そんたに嫌なら、飲まねぇば良いのに。タゲは見栄っ張りだね」
「そんたに酷い顔してだ?」
「うん、かなり酷い顔してた。ごめんね、無理に飲ませたりして」と微笑んだ。
 洋子は、ストローで氷を回しながら、プールの方へ視線を移した。
 慎一郎が、水面を跳ねるようにバタフライをしていた。
「慎ちゃんは、泳ぎが上手なんだね。魂消(たまげ)たよ。まるで飛び魚みたい」洋子が、目を丸くして言った。
「小学生の時、スイミングスクールさ通ってだらしいよ」
「色んなスポーツができるのって羨ましいな。ヨッコはバスケだけで他のスポーツは下手たとっぴなんだ」洋子は、目を細めて慎一郎を眺めた。

 慎一郎は、小学生の頃、県大会で優勝したことがあるほどのスイマーだった。しかし、持病の中耳炎が悪化し、水泳を諦めた。中学に入ると、背の高さに目を付けたバレーボール部の先生に勧誘されてバレー部に入った。
 一方、芹奈もミニバスをする傍ら、水泳部に借り出されて、地区大会で優勝したことがある。運動神経抜群で、水泳も得意だった。芹奈は、スイマーとしてのプライドを刺激されたらしく、張り合って泳いでいた。
 プールの中で、芹奈と慎一郎が何か話をしていた。その後、芹奈が岳実を手招きして呼んだ。
「昼ごはんを賭けて、勝負するから、スタートの合図と、ゴールのチェックしてよ」芹奈が言った。
「うん、いいよ」と引き受けた。

 慎一郎が水に潜って、隣のコースに移った。昼飯時ということもあり、競泳用プールのコースは、人が疎らになっていた。岳実と洋子は、プールの対岸に移動した。
「位置に付いて、用意、ドン」
 岳実が合図を出すと、二人は一斉に飛び込んだで水中に消えた。二つの人影が水中を走り、5mを越えた辺りで、浮き上がってきた。芹奈はクロール、慎一郎は平泳ぎだった。慎一郎は、スタートの潜水でリードを奪っていた。しかし、半分くらいまで来ると、芹奈に追い上げら、残り5mで完全に並んだ。最後はタッチの差だったが、芹奈が一瞬早かった。
 芹奈が跳ね上がって、ガッツポーズをした瞬間、
「痛たー!」と絶叫して壁に凭れかかった。
 足が吊っていた。慎一郎に対抗して頑張り過ぎたせいだ。
 芹奈は、慎一郎に抱えられてプールサイドに上げられた。勝負には勝ったが、周囲に無様な姿を晒してしまった。

 第26章 終了