第12章/童貞

 体育館に戻ると、慎一郎がコートサイドで股割りをしていた。両脚を大きく広げて眉間に皺を寄せながら頑張っていた。
「慎ちゃん、最近、よく柔軟してるな。どうした風の吹きまわしだ?」
「おっ、タゲ、丁度いい所さ来たな。僅んつか、背中押してけれ」
「うん、いいよ。お安い御用だ」と背中を諸手でグイッと押した。
「痛てて…。タゲ、強すぎるよ。もっと優しく押してよ」慎一郎は顔を歪めた。
「悪りぃ悪りぃ。それにしても、慎ちゃん、わったり体、かでぇな」
「んだがら、練習後に股割りと四股を踏むことにしたんだ」
「何だか、力士みだいだな」
「うん、我もそう思う」慎ちゃんは、苦笑いした。
「さては、芹奈の入れ知恵だが?」
「んだ。股関節を柔らかくするには、四股と又割りが一番だからって言われたんだ。毎日やれば、足腰が強くなる上に重心が低くなって力強くなるって教えてもらったんだ」と顔を歪ませながら言った。
「慎ちゃん、相撲馬鹿の誰かさんにに付き合うことはねぇよ」と言いつつも、芹奈の指摘は的を射ていると思った。
 慎一郎の体は、押せども押せども曲がらなかった。予想以上の固さだった。

「それにしても、慎ちゃん、やたら固ぇな」
「子供の頃から、体が固ぇんだよ」
「柔軟は毎日の積み重ねだよ。千里の道も一歩からって言う諺もあるべ」と、ちょっと偉そうに御託(ごたく)を並べた。
「なるほど、千里の道も一歩からか。よし、んだばタゲ。又割り、交代だ」
「交代って、我もやるの?」
「もちろん」
「我はいいよ」
「タゲ、千里の道も一歩からなんだべ。さぁ、やるべし」慎一郎は、岳実の台詞を持ち出した。
 偉そうな口を叩いた手前、一緒にやらざるを得なかった。結局、股割りが終わってから四股にも付き合わされた。他の部員たちは、岳実たちを好奇の目で眺めていた。始めは四股なんて楽勝だと思っていたが、最後の100回目では、尻から太腿にかけての筋肉がピクピクいって吊りそうだった。

 柔軟が終わってから、二人で連れションに行った。便器に向って放尿した。
 岳実は陰毛が薄めで、腋毛も慰め程度にしか生えていなし、髯も薄い。体毛が生えてきた時期も、友達よりも遅かった。それゆえ、他人の庭に生える芝が非常に気になる。
 チラッと慎一郎の一物を一瞥した。立派な一物をぶら下げていた。陰毛も鬱蒼たる熱帯雨林といった感じだった。慎一郎は、腋毛もはみ出るほど茂っているし髯も濃い。放尿しながら大きな溜息をもらしてから、気になっていた事を思い切って聞いてみた。
「慎ちゃんは、童貞だが?」
「えっ、何だよ急に。そんな事、いぎなり聞がれてもなぁ…」
 動揺した慎一郎が尿を便器の外に外した。

「ごめん、変な事聞いでしまって。慎ちゃんの馬並みの一物を拝見したら、ちょっと聞いてみたくなったんだ」と胡麻化した。
「勝手に我の黒王号を覗き見しねぇでよ。拝観料頂くよ」 慎一郎は、とおどけた。
「んだば、5円だけお賽銭を入れておくよ」
「そんた、はした金だば足りねぇよ」
 慎一郎は、一物を震わせて尿を切ってから、
「童貞だよ。んで、そういうタゲはどうなんだ?」と呟いてからチャックを閉めた。
「我も、童貞だ」と、苦笑いを浮かべた。
 岳実は、慎一郎が童貞だと聞いてホッとした。
 もし慎一郎があっちの世界の住人だったら、かなり凹(へこ)んでしまっただろう。

 体育館に戻る途中、廊下の窓からプールが見えた。陽光が燦々(さんさん)と降り注ぎ、水面がスパンコールのように煌いていた。
「タゲ、一丁、泳ぐが?」慎一郎が、唐突に言った。
「えっ、今から?」
「今、泳がねぇで、いつ泳ぐんだよ」
「急に、そんた事言われてもなぁ。水着ねぇよ」
「水着なんていらねぇよ。パワータイツ一丁で泳げるよ」
 慎一郎が。自分のパワータイツを指差した。ちなみに、パワータイツとは、バスケットパンツの下に履く膝上までのタイツのことだ。
「パワータイツで泳げねぇこともねぇばってや…」と、ためらった。
 茹だるような熱さだったので、プールは魅力的だった。しかし、岳実は、泳ぎが下手だった。平泳ぎで25メートルを泳ぐが関の山だ。一方、慎一郎は泳ぎが上手い。小学校の時に、スイミングスクールに通っていて、県大会でも上位に入賞するほどの選手だった。
「慎ちゃんと違って、水泳は得意でねぇんだ」
「入るだけも気持ち良いって。体中が汗でベトベトしてで、吾妻(あづま)しぃぐねぇべ。シャワー代わりに、ザバーンと入るべし」慎一郎がウィンクした。
「シャワー代わりか…んだば、入るか」と、誘いに乗った。
「よし、ザバーンと飛び込むべし」慎一郎は、嬉しそうに相好を崩した。

 体育館の非常口から外に出て、草むらの中をプールに走った。
 人参の花に似た白い花が咲いていた。一見、雑草のようだが、芹の花だった。その花が、芹の花だと知ったのは小学3年の夏休みだった。その時の出来事が脳裏をよぎった…
 その日の天気予報では午後から雨になるという事だったので、傘を持って学校のプールに行った。しかし、午後になっても雨が降る気配はモクモクした入道雲が太陽に輝いていた。プールの帰り道に、近所の少年と、傘でチャンバラごっこをしながら帰った。そして、道端に生えていた雑草を敵に見立てて、宮本武蔵になったような気分で、傘を振り回して遊んだ。
 芹奈が、岳実のそばに寄ってきて、振り回していた傘を掴んで言った。
「タゲ、止めれ。草だって生きでるんだよ」
「草刈りして遊んでるだけだ。大人だって、よく草刈機で除草してらべ」
「タゲが今、薙ぎ倒してた花の名前を知ってらが?」
「花の名前?これは単なる雑草だべ」
「それは、私の名前と同じ芹の花なんだ…前、母さんに、教えてもらったんだ…」
芹奈が空を見上げて、母を偲びながらで言った。
「ごめん、我は別に悪気があってやってだ訳でねぇんだ」
「うん。これからは、もう止めて」と言って芹奈が微笑んだ。

 芹の花を見ながら、子供の頃を追憶していると、慎一郎が大きな声で呼んだ。
 慎一郎が、プールサイドの金網を乗り越えた。岳実もそれに続いた。金網には、昼顔が絡み付いて、ライトピンクの花をたくさん咲かせていた。強烈な日差しに負けずに咲く昼顔に、力強い生命力を感じた。

 慎一郎はプールサイドに入るなり、Tシャツやバスパンを脱ぎ捨てて、パワータイツ一丁で、頭からプールに飛び込んだ。
 大きな音と共に、プールサイドに水飛沫が上がった。パラパラと冷たい水が、岳実の頬に当たった。慎一郎が、水面の上から顔を出して、気持ち良さそうに顔を拭った。
「おーい、タゲ。なにボケッとしてら、早く入れ。気持ちいいぞ」
 岳実は、慎一郎に続いて、頭から思いっきり煌めく水の中へ飛び込んだ。

 第12章 終了