第13章/ノルウェイの森

 岳実は一人だった。
 カーテンを締め切った薄暗い体育館の中。開けっ放しの非常口から光の帯が入り込み、プリズムのように煌いていた。フリースローを打ったがリングに当たらなかった。ボールが岩のように重かった。突然、背後から慎一郎が現れて、リングに向かって高々とジャンプし、スラムダンクを決めた。
「慎ちゃん、すげぇな。今度、スリーオンスリーの練習でも見せてやれよ。芹奈が惚れちゃうがも知れねぇぞ」岳実はからかった。
「それは間違いねぇな。芹奈ちゃんもいただきだな」と自信に満ちた顔をした。
「慎ちゃん、今日は強気だな」
「まぁな。我もついに、あっち世界の住人になったがらな」
「あっちの世界?まさか、慎ちゃん…ど、童貞を捨てたんだが?」
「わったり、気持ち良かったよ」と優越感に満ちた表情をした。
「相手は誰だ?」
「ふっふっふ、教えて欲しいか…聞いて驚くなよ」慎一郎は目をギラつかせてせせら笑った。
「相手は洋子だよ」
「えっ、冗談だべ」
「いやぁ、最高だったよ。ご馳走様でした」と舌を出して唇を嘗め回した。舌が異様に細長かった。
 岳実は、慎一郎の胸倉を掴んで睨み付けた。
「どうした童貞君。殴るつもりか?ウキョ、ウキョキョキョ…」と甲高い笛のような声で笑い出した。慎一郎の舌が蛇のように伸びて岳実の首を締めた。
「く、苦しい…」と、目が覚めた。
 夢だった。寝汗でシャツがべっとりと濡れていた。開けていた窓の外から郭公の威勢のよい鳴き声が聞こえた。
「カッコー、カッコー。ウッキョキョ…」という雄の鳴き声に続いて、「ピィピィ…、ピピピィ」と雌の鳴き声が聞こえた。
 まだ朝の5時前だった。郭公は、早朝から、お盛んで羨ましい限りだ。お陰で悪夢を見てしまった。布団を被って二度寝しようと思ったが、郭公の鳴き声が気になって眠れなかったので網戸を空けて、「うるせぇ。あっち行け」と郭公に怒鳴った。
 郭公は、丸い目を、更に目を丸くして飛び去った。

 岳実は枕元に置いてあるラジカセを付けた。三味線とギターを足して2で割ったようなエキゾチックな音色が流れてきた。シタールというインドの弦楽器だった。その前奏に続いて、ビートルズの「ノーウェイジャン・ウッド」が流れた。眠気を催すような曲調だった。
 ノルウェイにも郭公は生息しているのだろうか?もし生息しているとすれば、どんな鳥に托卵しているのだろうか?布団でそんな事を考えながら、ビートルズと郭公のサンライズセッションに耳を傾けていると、何時の間にか、また夢を見ていた。
 洋子が、岳実の部屋にいて、椅子に座っていた
「なかなかイカす部屋ね」彼女は振り向いて言った。
「ノルウェイの森みたいで素敵だろう」
「どちらかと言えば、フィンランドの森みたいね」と小悪魔のように微笑んだ。
「違いが、良く分からねぇな」
 ノルウェイでもフィンランドでも良かった。大事なのは、目の前にいる洋子を抱くことだった。
「ほら見て、フィンランドの森みたいでしょう。オーロラが輝いているわ」
 洋子が、頭上を指差すと、天井が抜けて夜空が見えた。
 北斗七星が、まるで七つのシリウスのように輝き、碧色のオーロラがらめいていた。それは蛍の光で染めたシルクのカーテンようだった。
「本当だ。フィンランドの森みたいだ…」と、溜息を漏らした。
 洋子が岳実の手を取りベッドへ誘った。岳実は手を引かれるがまま、洋子と一緒にベッドに腰を掛けた。彼女が、急に布団を被って中に隠れた。
「ねぇ、来て」洋子が言った。
 岳実は、掛け布団をたくし上げて入り込んだ。洋子の肩を引き寄せて、キスをしようと顔を近付けた。唇を重ねる直前に、驚いて仰け反った。布団の中にいたのは香田だった。
「ねぇ、キスしてよ」香田が迫ってきた。
 金縛りに掛かったように動けなかった。
「あぁ我のファーストキスが…」
 唇が奪われる間際に目が覚めた。じっとりと嫌な汗をかいていた。目覚まし時計を見ると5時半だった。部屋の中もノルウェイの森から、リヴァプールの森ぐらいの明るさになっていた。

 小便に起きてから台所で水を飲んだ。何だか小腹が空いたので冷蔵庫を開けてみたが、めぼしい物は入っていなかった。サンダルを履いて裏庭のトマト畑に向かった。涼しい朝だった。半透明の雲が、空に斑模様を造っていた。擦り硝子のような青空だった。王冠のようなヘタを付けた扁平(へんぺい)なトマトは、絵本に出てく王様の顔のようだった
 赤々と熟したトマトをもぎ取り、表面の朝露をシャツで拭いて、そのまま齧った。トマトを食べながら、隣の空き地に目をやると、月見草が咲き群れていた。朝露に濡れたレモン色の花が朝日に煌いていた。夜の月見草も良いが、朝の月見草も美しい。

 Tシャツの裾をたくし上げ、ドラエモンのポッケのようにしてトマトを入れて運んだ。台所に立ち、トマトを笊(ざる)で洗っていると母が起きてきた。
「タゲ、今日は早ぇごと」
「早く目が覚めて、小腹がすいだがらトマト取って来たんだ」
「あら、気が利くごと。所で今日は、達子森(たっこもり)で練習だべ?」
「9時からの予定だ」
「今日は、他の女の子が、弁当作ってきてけるんだべ?」
「んだよ。なして母さんが、知ってらの?」
「はっさ、口が滑ってしまったな。実は昨日、明日の弁当は?って、セリナちゃんさ聞いたら、もう一人の子が当番だがら、また来週お願いって言われたんだ」
「また来週ってどういうこと?」
「はっさ、また、口滑ってしまった」
 母は、顔を顰(しか)めた。
「はっはーん、分がったぞ。道理で芹奈の弁当が、んめぇど思ったんだ。あれは、母さんが作ったんだべ?」
「母さんは手伝っただけだよ。料理の仕方を教えてっていうがら、セリナちゃんの家で一緒に作ったんだ」
「それであんたに旨くできたんだな」
「芹ちゃんさは内緒にしておいでね。母さんが、口滑らした事を喋れば駄目だよ。さぁーて、母さんは、朝御飯の仕度始めるかな。所で、バスケするのは良いばって、夏休みの宿題はちゃんと進んでらが?」
「予定は未定って言うが、何ていうが…」
「来年は大学受験だべ。今のうちから、ちゃんと勉強しておかねぇば、何処の大学さも行けねぇぐなってしまうよ」
「まぁ、ボチボチやるよ」
「うちは家計に余裕がねぇがら、国立大学に現役で入って貰わねぇと厳しいんだよ。それは、肝に銘じておいてよ」
「はい、はい。それは、耳さタコができるぐれぇ聞いたよ」
「今朝は、せっかく早起きしたんだがら、朝御飯まで勉強だな」母は急かした。
 岳実は渋々、部屋に戻って物理の勉強をした。夏休み前に立てた予定の1/3も進んでいなかった。放物線の運動を、数式で説明が出来たからといって、バスケットのシュートが上手くなる訳ではない。もし、物理を勉強して、シュートが上手くなるのなら、ノーベル物理学賞の受賞者は皆、最高のシューターになるだろう。物理の問題にブツブツと難癖をつけながら、朝飯まで机に向かった。

 朝飯に納豆が出た。父は、どっさり塩を掛けてから、たっぷり醤油を垂らして掻き混ぜた。秋田では、納豆の親友は塩と醤油なのだ。
「ちょっと、あんた。そんたに塩と醤油掛げでだら、チュンブなるよ」母が、眉間に皺を寄せて注意した。
「何も、何も。このぐらい大丈夫だ」父は気にもとめずに、納豆を勢いよく、かきこんだ。
 秋田では脳卒中をチュンブという。血管の英語のチューブが、転訛してチュンブとなったのだと言われている。秋田の人は、しょっぱい物が好きなので、チュンブの罹患率が全国一だ。
 岳実も濃い味が好きなだけに、チュンブには気をつけなければと思いつつも、父から分けてもらった納豆にとんぶりを加えて食べた。とんぶりのプチプチした食感と、納豆のネバネバが絡み合って堪らなく旨かった。

 第13章 終了