第30章/それぞれの秘密

 岳実たちは一緒に自転車で喫茶店に向かった。喫茶店の方向が、鳳女子高校の方だった。
 鳳女子のバスケ部の練習は午前中だった。岳実は、練習帰りの洋子と擦れ違わないか心配だった。鷹のように目を凝らして進行方向を見ていると、数人の女子高生が自転車に乗って来るのが見えた。鳳女子の制服を着ていて、ショートカットだった。洋子に似ていた。
 わざと自転車のスピードを落として真沙美たちから遅れて、一人でいる演技をした。だが、それは杞憂に終わった。擦れ違ったのは洋子ではなかった。ほっと胸を撫で下ろした。
 喫茶店はレンガ造りで壁には艶のある蔦が伝っていた。瓦屋根には、サンタクロースが入れそうな巨大な煙突が伸びていた。ドアには、「ジャムセッション」という音符♪つきの看板が掲げられていた。
 店内は落ち着いた雰囲気だった。
 内装や調度品は木目が美しく、しっとりした曲調のジャズが流れていた。シックな黒エプロンをした店員に誘導されて、窓際の4人掛けの席に案内された。他の客の様子を見てみると、真沙美が話していたようにアップルパイが好評だった。
 場所が近い事もあり、鳳女子の制服を着た女子高生が何人かいた。その制服を見るたびにドキッとした。

 真沙美たちのリクエストで、500円のアップルパイと飲み物のセットを3人前頼んだ。飲み物は、真沙美たちも紅茶を選んだ。今日は、コーヒーを飲めないのを馬鹿にされることはなさそうだ。
 早紀は、購入したばかりのジャスのCDを出した。ジャケットには、チャーリー・パーカーと書かれていた。2人は、歌詞カードを見ながらジャズについて話を弾ませていた。
 岳実は素人なので、さっぱり話が分からなかった。
 早紀は、鳳女子のブラスバンド部で、サックスを担当しているということだった。秋の学祭に向けて、ブラバン部を中心とした有志でジャズバンドを結成するらしい。二人はその話で持ち切りだった。真沙美も助っ人として参加するらしい。ジャズのイメージは、ピアノの語り弾きだったが、彼女らの話を聞いていると、色々な楽器のセッションがあるらしい。何れにしても、耳にするジャズ用語は、ちんぷんかんぷんで、ミュージシャンの名前も初耳だった。
 バスケ好きの人間にとって、ジャズと聞いて頭に浮かぶのは、NBAのチームのユタ・ジャズだ。
 チーム名になるぐらいだから、ユタはジャズの盛んな街なのだろう、と岳実は思った。
「ユタって、ジャズが盛んなんだべ?」岳実は知ったかぶりをした。
「ユタってどこですか?」真沙美が、間の抜けた声で聞き返した。
「アメリカに、ユタ州ってあるべ?」
「早紀、ユタって、ジャズが盛んだっけが?」真沙美が、尋ねた。
「シカゴやニューヨークは盛んだばって、ユタは盛んじゃねぇな」早紀が頭を傾げた。
「若しかしたら、ジャズの発祥の地かも知れねぇな」岳実は、取り繕って言い訳した。
「ジャズ発祥の地は、ニューオリリンズですよ」早紀が、首をかしげた。
 ユタはジャズが盛んというのは安直な考えだった。知ったか振りをして、自分の顔に泥を塗ってしまったので、余計な口出しはせずに聞き役にまわって、2人の会話に耳を傾けた。

 焼きたてのアップルパイが運ばれてきた。2人は、ジャズの話で盛り上がりながら、ペロリと平らげた。岳実は、生まれて初めてアップルパイを食べた。パイ生地の表面がパリッと焼けていて、仄かにバターの香りがした。生地はもちもちした食感で、中に入っている煮詰めたリンゴは甘酸っぱく、口の中でパイ生地と絡み合った。
 岳実は、一口で虜になってしまった。
「お代わりしても良いですか?」
 真沙美が、つぶらな瞳をランランとさせた。
「うん、良いよ。ここのアップルパイは、わったり旨ぇな」
「こっちもお代わりしても良いですか?」早紀も、便乗した。
「うん、遠慮しねぇで食べてけれ」
「やったね。せば、二人で二つずつ頼むが?」早紀が言った。
「ちょっと図々しいぐねぇがな。タゲ先輩、大丈夫ですか?」真沙美が、尋ねた。
「えっ、えーと。うん、大丈夫だよ」

 岳実は、社交辞令で何個でも食べて良いよと言ったが二人は真に受けたらしい。2人はアップルパイを頬張りながら、ジャズについて熱い議論を交わした。
「学祭は、やっぱりノリが大事だがら、スイングがいいよ」真沙美が言った。
「スイングも良いばって、やっぱり、ビバップで行きてぇな。何て言っても、やっぱり、バードは最高だよ」早紀は、腕組みをして譲らなかった。
 ジャズ素人の岳実には、馬の耳に念仏だった。しかし、『バードは最高』という言葉が気になった。バスケット界で、バードと言えば、ザ・レジェンドの称号を持つ、ラリー・バードだ。’80年代に、ボストン・セルティックスを幾度もNBAチャンピオンに導いたスーパースターだ。
「確かに、バードは最高だな」
 岳実は、性懲りもなく知ったか振りをした。もし突っ込まれたら、ラリー・バードの話をして、ボケればいいと思った。
「ほら、真沙美。タゲ先輩も、バードが最高だって言ってらよ」早紀が言った。
「ジャズの素人のタゲ先輩でも、バードは知ってるんですね?」真沙美が尋ねた。
「んまぁ、バードは有名だがらな」岳実は、適当に相槌を打った。
「バードが天才だって言うのは認めるよ。んでも、私はベニ―の方が好きだな」
 真沙美は、口を尖らせて言った。
「真沙美は、ベニー・グッドマンが好きだから、スイングが良いって言ってるんだべ?」
「それだげで、スイングをやろうって言ってる訳でねぇんだ。ビバップは、高校生の即席バンドには難しいよ」
「頑張って練習すれば、できるよ。頑張って、ビバップやろうよ」早紀は、譲らなかった。
「セクステットは合せるのが難しいから、ビバップは無理だよ」
「セクステットって何だ?」岳実は質問した。
「6人ユニットで演奏することですよ」真沙美が言った。

 真沙美は軽く溜息を吐いてから、アップルパイに齧り付いた。もぐもぐと咀嚼(そしゃく)しながら、何かを考えてから、語りかけるように話した。
「第一、学祭に来るお客さんの中で、ジャズに詳しい人なんて殆どいねぇよ。素人でも一緒になってリズムに乗れるスイングの方が、絶対、盛り上がよ。イン・ザ・ムードとかなら、誰でも耳にしたことし。タゲ先輩もそう思うべ?」
「んだな、やっぱり学祭はノリが良い方がいいな」
「んでも、こっちは、ビバップが良いな」
「早紀はバードのサックスを吹きこなせるの?難しいよ」
「頑張って練習するもん」
 早紀は、頑として譲らなかった。
「参ったなぁ。あんたは、達也さんの影響が大きいからなぁ」真沙美が呟いて、苦笑いした。
「達也さんって、誰?」岳実は尋ねた。
「早紀の彼氏なんですよ」
 真沙美が答えて、早紀に目をやった。
「こっちが言うのも何だばって、わったり格好良いんですよ。サックスは、プロ級の腕前なんです。ジャズサークルで知り合って、それで、色々と教わってるんです」
 早紀は、微塵の恥じらいもなく、自慢げに笑った。
「自称、秋田のチャーリー・パーカーらしいよ」真沙美が茶化した。
「自称でねぇよ、周りの人も認めてらよ。達也さんのサックスは最高なんだ。数年後には上京するって言ってだがら、必ず有名になって、日本のバードって呼ばれる存在になると信じでらんだ」
「はい、はい。それは良かったですねぇ」真沙美は肩を竦めた。

 ジャスの話に花を咲かせながら、真沙美と早紀は、二つのアップルパイをペロリと平らげた。結局、スイングにするかビバップにするのかは決めれなかったようだ。
 窓越しに、赤いスポーツカーが駐車場に入ってきたのが見えた。車高が地面に付くほど低く、仰々しいスポークが付いていた。長髪でサングラスを掛けた若い男が運転していた。
 早紀は、表情を輝かせて、残っていた紅茶を急いで飲み干してから、手鏡と櫛を出して髪を整えた。
「達也さん、来たがら、こっち行ぐね。タゲ先輩、アップルパイ、ご馳走様でした」
「達也さんに宜しく喋っておいで」真沙美が手を振った。
「うん。んだば、お邪魔虫は帰りますね。後は二人、水入らずで楽しんでください」早紀はウキウキした様子で出て行った。

 赤いスポーツカーに駆け寄り、助手席に乗り込んだ。車は、重厚なマフラー音を唸(うな)らせて立ち去った。 
「達也さんって何歳なの?」岳実は尋ねた。
「20歳って言ってましたよ」
 優等生に見える早紀が、遊び人風の男と付き合っているということが不思議だった。女は見た目では分からない。20歳の男と付き合っているのであれば、当然、大人の関係なのだろう。つまりは、”あっちの世界”の住人ということだ。鳳女子高校は、歴史ある伝統校なので、男女関係には厳しいと思っていたが、それは、今は昔、単なる幻想のようだ。
「良識のある大人が、女子高校と付き合うのはどうだべな」と、嫉妬も孕ませて小言を言った。
「別に、お互いが好きあってるんだがら良いと思いますよ」
 真沙美は、あっけらかんとしていた。
「んでも、あんな遊び人風の男だがら、きっともて遊ばれでらんでねぇの?」
「大丈夫ですよ。早紀は、ちゃんと避妊もしてるし…」
 真沙美は、肉体関係を是認するような口振りだった。
「いや、そういう意味で言った訳じゃねぇんだ」岳実は動揺した。
「せば、どういう意味ですか?」
「いや、まぁ…、そうのう…そういう意味かな?」と、しどろもどろな返答をした。
 真沙美の話しぶりを聞いて、真沙美も体験済みなのかも知れないと思った。そう思うと、彼女が妙に婀娜(あだ)っぽく見えた。

 二人っきりになってから、真沙美は楽しそうに、日頃の出来事やジャズについて話をした。岳実は、客の出入りに気を揉みながら真沙美の話を聞いた。正直な所、多くの鳳女子の生徒が出入りする喫茶店から、一刻も早く立ち去りたかった。真沙美の話が終わり、ようやく店を出た。
 別れる間際に、真沙美が耳元に顔を寄せて言った。
「タゲ先輩、もう一つ秘密が出来ましたね」岳実は、ハッとした。
「それとも、秘密にしないでおきますか?」
 真沙美は、岳実を試すような言葉を囁いた。
「ごめん、秘密にしておいで」と地面に目を落として言った。
「アップルパイご馳走様でした。一緒にデート出来て楽しかったです。せば、さようなら」

 真沙美の背中を見送りながら、頭に『デート』という言葉がやまびこのように木霊(こだま)した。二人っきりで、喫茶店で時間を過ごす。岳実にしてみれば、単に奢っただけのつもりだったが、真沙美にしてみれば、デートだったのかも知れない。
 真沙美が自分に好意を寄せている事は知っていた。バスケ部のマネージャーを務めているだけあって、気配りが出来るし、愛嬌もあり、誰からも好かれる性格だ。もし、洋子と出会っていなければ、彼女の好意に絆(ほだ)されて好きになっていたかも知れない。

 岳実は葛藤しながら自転車で帰路に着いた。途中、自転車に二人乗りをしたカップルとすれ違った時、ぶつかりそうになったので、ひがみ混じりに、「危ねぇな」と呟いて舌打ちした。
「おっ、タゲじゃねぇが」と声を掛けられて振り向くと、香田だった。
「デートか、羨ましいな」と素っ気なく答えて、一緒にいた女の子を見たが、香田の彼女ではなかった。
 長い髪は栗色に染められて化粧もしていた。頭が緩くて尻の軽そうな雰囲気で、ミニスカートの下には色っぽい太腿を露にしていた。
「こんた所で会うなんて珍しいな。何処さ行ってだの?」香田が尋ねた。
「ちょっと、ゲーセンさ遊びに行ってだんだ」と誤魔化した。
 拡声器の異名を取る香田には、真沙美とアップルパイを食べていたなんて、口が裂けても言えなかった。
「タゲがゲーセン行くなんて珍しいな。さては、隠れてデートでもしてたんでねぇの?」
「ば、馬鹿なこというなよ」岳実は、動揺した。
 変に勘が良いのが香田の恐い所だ。
「ねぇ、カッチャン。この人、誰?」女の子が香田に囁いた。
「こいつは、バスケ部の同期でタゲっていうんだ」
「どうも、倉内岳実です」と、軽く会釈をした。
「アサミです。カッチャンの彼女なの、よろしく」と香田の腕に絡み付いた。
 香田の名前は和政なので、カッチャンと呼ばれているのだろう。岳実は、香田の彼女が、彼をカズくんと呼んでいたのを思い出した。
「昼間っから、熱々で羨ましいな。んで、カズくんは、これから何処さ行くの?」
 嫌味な綽名で呼ばれた香田は苦笑した。
「これから、アップルパイが評判の喫茶店さ行くんだ。アサミが、一緒に行こうって喧しいがらよ」
「あそこのアップルパイは、確かに旨ぇがったな」と呟いた。
「タゲ、行ったごどあるの?」
「いや、噂を聞いただけだ…」と語尾を濁してはぐらかせた。
「ふーん、せば、結構、有名なんだな。まぁ、喫茶店さ行った後は、我の部屋でお楽しみ会を開催する予定なんだ。なぁ、アサミ」香田は、卑猥な笑みを浮かべた。
「やだー、カッチャンの助平。そんなこと人前で喋らねぇでよ。こっ恥ずかしいなぁ」
 アサミは、香田の背中をバシッと叩いた。
「タゲ、せば、またな」
 香田は、女の子を後ろに乗せて行った。岳実は胸を撫で下ろした。あと10分遅かったら、真沙美と二人っきりでいる所を香田に目撃される所だった。

 立ち止まって、香田たちが遠のいて行くのを見送った。アサミのミニスカートが風に靡(なび)いていた。思わず、肉付きのよい太腿に目が行った。
 あんな太腿を見せられては、香田が、我慢できないのも無理はない。二人は、”あっちの世界”の住人だ。しかし、岳実はまだ、こっちの世界の住人だった。今日の早紀と真沙美の会話を聞いていると、あの二人も、”あっちの世界”の住人だろう。伝統ある鳳女子では淑女教育が徹底され、風紀が厳しいと思っていたが幻想のようだった。という事は…洋子も、”あっちの世界”の住人かも知れない。
 やるせない想いを振り払うように頭を振り、重いペダルを漕いで家路に着いた。

 第30章 終了