第28章/蜜の味

 岳実たちは相乗温泉を後にした。玄関から正門へ伸びる道は、真紅のサルビアで彩られていた。
 芹奈が、花壇の傍らで立ち止まり、サルビアの花を摘んで口に含んだ。
「どうだ、甘ぇが?」と芹奈に聞いた。
「うん、このサルビアは、蜜が多いな」
 岳実も、しゃがんで、サルビアに手を伸ばした。間近で見ると、花の形は舌を出した蛙に似ていた。花の根元を口に含むと、爽やかな甘みが口の中に広がった。
 洋子と慎一郎も、花壇の脇にしゃがみ込んで蜜を吸った。
 小学生の頃は、よく、校庭の花壇に咲いていたサルビアの蜜を吸った。大抵、夏休みが終わる頃には、殆どの花は摘まれてガクだけとなっていた。幸いにもサルビアのガクは大きくて花と区別がつきにくいので、遠目には咲いているように見えるので、先生に怒られることはなかった。
 もし他の花だったら、こっぴどく叱られたかもしれない。何れにしても不幸なのは、ハイエナのような子供たちに摘まれてしまったサルビアだろう。
 傍から見ると、図体のでかい高校生4人が、花壇の脇にしゃがみ込んでいる姿は異様なのだろう。道行く人が好奇の目を向けていた。若しかしたら、ヤンキー座りして煙草を吸っていると思われたのかも知れない。

 バス停に到着した。マイカー客が殆どで路線バスの利用者は少なく、バスを待っていたのは岳実たち4人だけだった。
 路傍に咲く立ち葵の数より、人間が少なかった。立ち葵の中には、慎一郎より背の高い物もあった。洋子が一輪摘んだ。桜色の八重花だった。花弁には襞(ひだ)が入り、レースのようだった。
「葵の花が咲き終わる頃には夏休みも終わってしまうな。なんか残念だな」洋子が、寂しげに言った。
「その花、立ち葵って言うんだ。名前は知らねがったなぁ。所で、その花も蜜吸えるんだが?」慎一郎が、興味深そうに尋ねた。
「立ち葵は、サルビアと違って蜜は吸えねぇよ」洋子が言った。
「蜜吸う訳でもねぇのに、その摘んだ花はどうするの?」慎一郎が、首を傾げた。
「どうするど思う?」
「分かった。ハイビスカスみたいに、髪さ飾るんだべ?」
「そんた洒落たことはしねぇよ」
 洋子は、悪戯っぽく笑ってから、花びらを綺麗に取り除いた。そして、灯台のミニチュアのような形をした雌蘂(めしべ)を、おでこでにピトッとくっ付けた。
「コッケー、コッコッコッコ」
 洋子は、腕を羽のようにバタつかせて、鶏の物真似をしてみんなを笑わせた。岳実も、立ち葵の花を摘んで雌蘂(めしべ)を額にくっ付けた。
「ヒヒーン、一角獣のユニコーンだぞ」と、おどけた。
「ユニコーンっていうより、角のある宇宙人って感じだな」
 芹奈が、白けた突っ込みを入れたので、岳実は少し腹が立った。

 岳実は、立ち葵を二輪摘んで、二本の雌蘂を、芹奈の額の左右にくっ付けた。
「ぎゃー、赤鬼だー」と言った。
「ちょっと、タゲ。ふざけるのもいい加減してよ」
 芹奈は、本物の赤鬼のように顔を赤らめて、角を額から剥がして地面に投げ捨てた。岳実は、芹奈に捕まらないように、20mほど走って逃げた。振り向いてみると、芹奈が仁王のような形相で岳実を睨み付けいた。睨み合いをしているうちに、バスがやってきた。
「バイバイ。タゲは、そこで、次のバスが来るまで待ってろ」
 芹奈が、捨て台詞を吐いてバスに乗り込んだ。岳実は、全力疾走してバスに向った。洋子が気を利かせて、ゆっくり乗車してくれたので置いて行かれずに済んだ。
 乗客は4人だけだったので、最後尾の座席に、右から順番に、芹奈、洋子、岳実、慎一郎と並んで座った。発車して、ものの数分で慎一郎がウトウトし始めた。一生懸命、泳いで疲れたのだろう。芹奈も直ぐに居眠りを始めた。
 岳実が大きな欠伸をすると、洋子も手を口に当て欠伸をした。お互いにそれを見て笑いあった。

 バスに揺られている内に、岳実も眠りに落ちていた。ふと、右肩に重みを感じて目を開けると、洋子が岳実の肩を枕にして寝ていた。その可愛い寝顔を間近にしたせいで、岳実は猛烈にキスをしたい衝動に駆られた。そっと手を伸ばして黒髪に触れ、匂いをかいだ。しっとりとして艶やかで、いい香りがした。
 その時、慎一郎の耳からイヤホンが、ぽろりと外れて太腿の上に落ちた。イヤホンを拾い、自分の耳に当ててみた。慎一郎が、「オー・マイ・リトゥガール」と口ずさんでいる尾崎豊の曲だった。恋する気持ちをストレートに歌った素敵な曲だった。
 友達の間では、尾崎豊のファンは多かった。しかし、岳実は、頑なにビートルズにこだわり、今流行りの音楽を拒絶していた。同世代では、自分こそが、ビートルズフリークの最後の砦だという使命感を持ち、孤高の矜持(きょうじ)を気取っていたので、尾崎豊を聴いている間、何だかスパイをしているような気分だった。
 急に、バスがガタンと揺れた。その衝撃で慎一郎が、うめき声を上げて首を振った。素早く耳からイヤホンを抜き、彼の太腿の上に戻した。慎一郎は、何度か頭を振り、再び眠りに付いた。

 バスは市街地へ入ったが、岳実以外の三人は、居眠りを続けていた。岳実は、このまま洋子の温もりを肩に感じていたかった。
「次は、バスターミナル。バスターミナルでございます。お下りの方は、ブザーを押してお知らせ下さい」と車内アナウンスが流れた。
 岳実は、3人を揺り起こしてから、下車を知らせるブザーを鳴らした。

 第28章 終了