第24章/シャキモコ

 プール前日の朝になって、岳実はシャキモコしか持っていない事に気付いた。シャキモコというのは、競泳用のパンツのことだ。股のラインがV字にシャキっと食い込んで、股間がモッコリと盛り上がって見える。それが名前の由来だ。

 洋子の水着姿を妄想してばかりで、自分の水着の事をすっかり忘れていた。若しかしたら、慎一郎が、シャキモコを穿いてくるかも知れない。彼はメジャー級の一物を持っている。シャキモコ姿で二人が並んだら、女性の目を惹くのは、間違いなく彼の方だ。たとえるなら、達子森と富士山だ。いや、達子森では自分が余りにも可哀相なので、せめて秋田の名峰、鳥海山にしよう。何れにしても、軍配は、富士山に上がるのは間違いない。

 岳実は、シャキモコを穿いて鏡の前に立ち、ボディービルダーの真似をして筋肉を力ませて、全身を鯱張(しゃちこば)らせた。色白の体に、両腕、首、太腿、足首に日焼けの線がくっきりと付いていた。スリーオンスリーの練習で、夏の太陽に晒されていたせいだ。
 シャキモコの横からは、黒く縮れたキューティクルが顔を出していた。その日の部活の帰りに、赤いハイビスカスの海パンを買ってきた。海パンを穿いて鏡の前に立った。痩せた体には、不釣合いなほど派手だった。もう少し地味な物を選べば良かったなと後悔した。
 夜は、興奮して寝付けなかった。羊を数えてみたが、無意味だった。数え余った羊たちが、頭の中で逃げ場をなくして、グルグルと迷走を始めた。羊たちは睡眠を誘うどころか妨害する始末だった。頭の中から羊たちを追放し、洋子とプールで一緒に遊んでいる場面を想像しているうちに、眠りに付いた。

 朝の空は、セルリアンブルーに澄み渡り、綿菓子のような雲が漂っていた。いつもは、うんざりする猛暑の予兆も、その日ばかりは、幸福への招待状だった。
「さようなら図書館。こんにちは、プールサイドの乙女たち」と青空に向かって叫んだ。

 自転車で待ち合わせ場所のバスターミナルへ向かった。到着したのは、待ち合わせ時間の10分前だったが、洋子が既に来ていた。
 洋子はベンチに座って、イヤホンをしながら本を読んでいた。岳実が来たことに気付いていないようだった。横顔は楚々(そそ)として美しかった。岳実に気付くと、すくっと立ち上がって手を振った。Tシャツに短めの半ズボンという夏らしい格好だった。
「おはよう、タゲ」洋子が、微笑んだ。
「おはよう。ここ数日、熱かったばって元気だったが?」
「ちょこっと、夏バテ気味かな」
「大丈夫?若しかして、今日は泳がねぇの?」
「まさか、泳ぐよ」
「あんまり無理はしねぇ方がいいよ」と、内心は、ほっとした。

 洋子の隣に座ると、視線が思わず彼女の太腿に行った。視線を悟られそうな気がしたので、ごまかす為に、洋子の読んでいる本について尋ねた。本にはカバーがしてあった。
「それ、何の本?」
「当ててみて」
「えぇー、いきなり当てろって言われてもなぁ。結構、厚い文庫本だな。ヒントは?」
「有名な小説だよ」
「国産?それとも外国産?」
「国産って、果物や牛肉じゃあるまいし」
 洋子がクスクスと笑った。
「せば、ヒント。作者は、トから始まる外国人」
「外国産の小説は、あんまし呼んだことねぇがらなぁ」
 岳実は、日本の小説もろくに読んだことがないのに見栄を張った。
「せば、ヒントその二、ロシアの文豪」
「ロシアってソ連のこと?」
「ロシアとソ連は違うんだ。ソ連っていうのは、ロシアの他にもウクライナ、バルト三国、カザフスタンとかの色んな国々が集まってできた連邦国家なんだ」
「へぇ、ヨッコは、ソ連に詳しいんだな。いずれにしても、ロシアの作家で名前を聞いだ事があるのは…トルストイぐらいだな」
「ピンポーン、正解。トルストイの戦争と平和でした」カバーを外して表紙を見せた。
「難しそうな本だな」
「ナポレオン軍との戦争を背景にしたロシア人たちの物語なんだ。長編で読むのには時間が掛かるばって、なかなか面白れぇよ。読み終わったら、タゲさも貸してあげようか?」
「んだな…ちょっと呼んでみるかな」
 本当は読みたくなかったが見栄を張った。
「ヨッコは、読書好きなんだな」
「うん、読書は好きだね。今、はまってるのはロシア文学なんだ。お父さんの本棚に、ロシア文学の本がいっぱいあるんだ。それを読み始めたら、気付いたらロシア文学さはまってだんだ」
「若しかして、ヨッコの父さんは、共産党員なんだが?」
「違うよ。タゲは単純だな。ちなみに、選挙では、伯母さんが建設会社さ嫁いでいる縁もあって、いっつも自民党の候補者さ投票してるよ。所でタゲは、安保闘争って知ってる?」
「東大の校舎さ、水をぶっ掛けてるのをテレビで見たことはあるよ」
「あれは象徴的な映像だな。父さんは、学生の頃に社会主義に憧れて学生運動してだらしいんだ
。その頃に買った、ロシア文学の本が家さいっぺあるんだ。それを読んでるうちに、ロシア文学がわったり好きになってしまったんだ」
「ヨッコは、見かけによらず文学少女なんだな」
「見かけによらず?さては、単なるバスケ馬鹿の女だと思ってだんだべ?」
「いや、そういう意味で言ったんでねぇよ。ガリ勉っていう感じじゃねぇし、兄さんも全日本代表の選手だがら、スポーツ一家なのがなぁって思ってだんだ」
「確かに、兄さんは、本当のバスケ馬鹿だね。んでもね、ヨッコは、バスケと同じくらい読書も好きなんだ」
「えっ、バスケと同じくらい」と、驚いた。
 バスケに対する情熱は、自分以上だと思っていたので、バスケと同じくらい夢中になれる物を持っているということに衝撃を受けた。
 岳実は、バスケ以上に夢中になれたものはなかった。勉強では数学が好きだし、音楽ではビートルズが大好きだ。しかし、バスケには遠く及ばない。もし、バスケで将来を築けるのなら、そうしたい所だが、自分がそのレベルではないことは自覚している。

「大学さ進学したら、ロシア文学を専攻しようって思ってるんだ」洋子が、恥じらいを滲ませて微笑んだ。
「ちゃんとやりたい事を持ってるなんて、偉いな」
「タゲも進学するんだべ。志望学科はどこ?」
「一応、数学科が志望だ」
「すごいね。ヨッコは数学が苦手なんだ、尊敬するよ」
「そんな、大したことねぇよ」岳実は、謙遜しつつも内心、嬉しかった。
「数学科に入って、将来、何をするつもりなの?」
「ただ数学が好きだがら、先ずは、数学の道に進んでみようかなって思ってるんだ。強いて言えば、数学教師かな。地元さ戻って就職するなら、教師か公務員ぐらいしかねぇしな。んで、ヨッコは文学部さ行って、何の仕事するの?」
「翻訳の仕事がしたいんだ。現代のロシア文学を日本語に翻訳したり、逆に日本文学をロシア語に翻訳したりする仕事をするのが夢なんだ」
「そりゃ凄ぇや。何だか、ヨッコが偉く見えてきたよ。大したもんだな」
「全然、大したことでねぇよ。先ずは、大学さ合格しねぇと話にならねぇがら、頑張って勉強してるんだ」
「ちゃんと目標持って勉強してるんだな、感心したよ。それにしても、ヨッコがロシア文学を目指すなんて、ヨッコのお父さんも本棚さ飾っておいた甲斐があったな」
「酔っ払った時は必ず、お父さんが若かった頃はなぁ、って学生紛争やロシア文学の話を聞かされるんだ」
「うちの親父は、かなりのビートルズ馬鹿だよ。そのお陰で、我もビートルズ馬鹿になってしまったんだ。んでも、我はビートルズを目指してミュージシャンになるって夢は持たなかったな」
 岳実は、自分の音楽センスのなさを苦笑した。
「ビートルズは、ヨッコも結構、好きだよ」
 洋子のその言葉を聞けて、岳実は、心の底から嬉しかった。友人にビートルズが好きだと話すと、おやじくさいと言われることが多かった。親父の肩を持つわけではないが、ビートルズは最高だ。
 今の日本の若者の間では、テレビで持て囃されて、Jポップが流行っている。しかし、その音楽性は、ビートルズには遠く及ばない。子守唄代わりにビートルズを聴いて育った岳実には、Jポップは幼稚に感じた。

「そうだ、ヨッコね、シャチもってきたんだ」
 洋子が、おもむろに、スポーツバックの中から、萎んだままのシャチ型の浮き袋を取り出した。岳実は、彼女の説明は上の空で、シャチに乗るビキニ姿の洋子を想像した。
「ちょっと、タゲ。話聞いてる?」
「あっ、うん、ちゃんと聞いてるよ」
「プールサイドで、膨らませてね」
「うん、任せとけ」
 何気なく彼女のスポーツバックの中を窺ってみたが、ビキニらしきものは見えなかった。あまりジロジロと見ていると気付かれると思い、視線を洋子に戻した。その瞬間、目が合った。妄想していたビキニ姿が、目の前の洋子と重なった…澄んだ瞳に見詰められて、不埒な妄想をしていた自分が恥ずかしくなった。

 待ち合わせ時間ぴったりに、芹奈と慎一郎が到着した。慎一郎は、相変わらず、イヤホンで音楽を聴いていた。
「みんな早ぇな。若しかして、結構、待たせた?」イヤホンを外して言った。
「さっき来たばりだ。それに、バス時間にはまだ余裕もあるし。慎ちゃん、今日も尾崎聴いてらの?」洋子が、耳に指を当てて尋ねた。
「誕生っていう尾崎の最新のアルバムだよ。CDからダビングして聴いてるんだ」
「慎ちゃん、CD持ってらの、良いなぁ」洋子が羨ましがった。
「良がったら、ダビングしよっか?」
「ありがとう。今度、カセット持ってくるね」
「いいよ。我がダビングして持ってくるよ」
「本当?すごく嬉しい」
 岳実は、洋子も尾崎ファンだと知って興味を持った。岳実以外の三人は、尾崎の話で盛り上がったが、岳実は蚊帳(かや)の外だった。会話に加わりたかったが、加われない事情があった。

 岳実は、高校で孤高のビートルズマニアを気取っていた。「お前らは、音楽的な耳が未成熟だから、テレビに騙(だま)されて低レベルな音楽に喜んでいるんだ」と友人たちに説教までしていた。慎一郎に対しても、尾崎を見下すような発言をしていたので、手の平をひっくり返して、会話に加わる事はできなかった。それに、ビートルズマニアとしてプライドもあった。

 尾崎の話が終わった所で、洋子が腕時計を見て言った。
「バスが来るまでに、まだ時間あるな。近くさ、お菓子屋さんがあって、美味しいソフトクリーム売ってるがら行ってみようよ」
 洋子の提案に乗って、岳実たちはお菓子屋に向った。数分で大鳳庵(おおとりあん)というお菓子屋へ着いた。店頭には、大きなソフトクリームの模型と幟(のぼり)が立っていた。

 店内に入るなり、洋子が笑顔で手を振って、白髪混じりの店主に挨拶をした。
「こんにちは、大将」
「洋子ちゃん、いらっしゃい」
「ソフトクリーム四つ、頂戴」
「はいよ、ソフト四つね。直ぐに出来るがら、ちょこっと待ってなぁ」
 店主は、円錐形のコーンの上に、手際良くソフトクリームのトグロを巻き上げていった。
 一個ずつ仕上げて、洋子に手渡し、洋子がそれを皆に配った。
「今日も暑くなりそうだなぁ。こういう日は、ソフトが一番だべ?」 店主が言った。
 洋子は、ソフトを口にしながら、親しげに店主と世間話をしていた。
 岳実たちも、溶け始めたソフトに舌を這わせた。
「これから、みんなでアイノリさ行くんだ」洋子が、言った。
「今日みたいな日だば、気持ち良いべなぁ。おじさんも、店休んで行きてぇぐらいだよ。今日は、日曜だがら、プールも混むべなぁ」
「今日は、いい天気だがら、海も山も混んでらべ。んだば、もう少しでバス来るから行くね」
「洋子ちゃん、これ、サービスだ。皆で食べてみて」
 店主は、お菓子を四つ取り出して、紙袋の中に包んで渡した。
「ありがとう、頂きます」
「大鳳庵の自慢のハチ公饅頭だ。今の時期は腐りやすいがら、なるべく早めに食べてけれ」
「大好物だがら直ぐ食べるよ」洋子は、店主に手を振って店を出た。
「ヨッコ、店主と知り合いなの?岳実は、尋ねた。
「母さんの実家が近所なんだ。子供の頃、よく買いに来てで、今でも時々、学校の帰りに寄るんだ。サービスしてもらえるしね」洋子が、下をペロリと出した。

 バスターミナルに戻ると、洋子は、早速、ハチ公饅頭を皆に配った。雪のように白い饅頭で、可愛らしい秋田犬の顔が描かれていた。饅頭の中には梅紫蘇入りの餡子が入っていた。甘過ぎず、サッパリとした味だった。

 第24章 終了