第23章/沈黙の春

 夕闇が辺りを覆っていた。西空は仄かな残照を保っていたが、二つほど星が光芒を放っていた。 岳実は、芹奈と一緒に帰路に着いた。農道は、街灯が殆どなく、星の瞬きがよく見えた。
 集落の少し手前に小さな森があった。そこには水神の祠があり、湧き水が出ていた。比内町は伏流水(ふくりゅうすい)が豊富で、小さな泉がたくさんあり、近くには水神の祠があった。
 芹奈が、ブレーキを掛けて自転車を停めた。
「タゲ、あそこ見て」芹奈が、祠の方を指差した。
 蛍だった。淡い碧色の光が、明滅しながらゆったりと飛行していた。祠から流れる小川に沿って、蛍の光が流れていた。
「綺麗だなぁ」
 自転車を停めて、呆けたように眺めた。
「タゲ、ちょっくら、祠まで行ってみるべし」芹奈が、自転車を離れて歩き始めたので、彼女に続いて歩いた。
 妖精たちがエメラルドの松明を焚いていた。木々には、たくさんの光が明滅し、イルミネーションのようだった。まるで、メルヘンの世界に迷い込んだような感覚に陥った。
「こんたに蛍を見たのは久しぶりだなぁ」芹奈が、呟いた。
「昔はもっといたのにな。いつの間にか、蛍が少なくなってしまったなぁ」
「農薬と用水路のせいだな。農薬で死んでしまったり、小川をコンクリートで固めてしまったから、蛍が住む環境がなくなったんだ。前はもっと小川がたくさんあって、蛍もたくさんにいたのになぁ」芹奈が、溜息を漏らした。
「小さい頃は、良くメダカとか蛙の卵とかを取りに行ったなぁ。それに、ゲンゴロウとか、ヤゴとかも採りに行ったよな」岳実は、少年時代を思い出した。
「沢蟹、タニシ、それにドジョウも取りに行ったな。最近は行ってねぇけど、今でもいるのかなぁ」芹奈が、呟いた。
「それに、田圃の一面を覆うくらいのトンボが飛んでたよなぁ。芹奈は、オニヤンマが好きだったよな」
「うん、やっぱりオニヤンマが一番格好いいよ。タゲは、マルタンヤンマが好きだったな」
「やっぱ、マルタンの青い色が最高だべ」
「そういえば、子供の頃、どっちのトンボが一番格好良いかで大喧嘩したな」
「んだな、そんた事もあったな。最近は、マルタンも殆ど見ねぇし。何だか、いろんな生き物が、いつの間にか少なくなったなぁ」
 と、溜息を漏らした。
 岳実は、虫捕りに夢中になっていた少年時代を思い出した。芹奈は、昔から活発で、岳実を強引に野山に連れ出した。もし芹奈がいなかったら、岳実は、テレビゲームや漫画にだけ熱中するオタッキーな人間になっていたかも知れない。
「母さんはね。死んで蛍になったんだ…」芹奈が、蛍に手を伸ばして言った。
「母さんが亡くなってから、父さんが長距離トラックの出番の日は、タゲの家で預かってもらったべ。んでも時々、母さんが恋しくなって、大声で泣きたくなることがあったんだ。んで、こっそり裏の田圃さ行って泣いてだんだ。そしたら、そこに蛍がいっぱいいたんだ。それを見て、母さんが蛍になって慰めに来たんだって思ったんだ」
 芹奈は、少し涙ぐんだ声になった。
「うん、我もそう思うよ」と、頷いた。 
 最愛の母を亡くした悲しみ。それは、生涯で体験する中で最もつらい悲しみだ。気丈な芹奈は、子供の頃から、大人に心配かけまいと悲しみを我慢していた。岳実には、それが痛いほど分かった。
 芹奈が、岳実と決定的に違っていたのは、将来に対する覚悟だった。母を亡くしてから医者を目指していたので、勉学に対する姿勢が、岳実とは雲泥の差があった。真剣に将来を見据えて勉学に励んでいた。
 岳実が、漫画に夢中になっている時も、彼女は図書館から本を借りて読んでいた。両親には、「芹奈ちゃんの、十分の一でも良いから読書しなさい」と、よく叱られた。

「タゲ、『沈黙の春』っていう本を読んだことある?」芹奈が、蛍を眺めながら尋ねた。
「読んだことねぇな。恋愛小説?」
「違うよ。レイチェル・カーソンって言う人が、環境汚染について書いた本なんだ。農薬や化学物質のせいで、鳥や虫が死に絶えてしまうって警鐘を鳴らしてるんだ」
「今の日本は、それに近い状況だな」
「んだ。先ず、昆虫や魚が減って、その次に、それを食べる鳥がいなくなる。そして、最後には、その影響が人間に現れるって予言してるんだ」
「そのうち、人間も蛍みたいに減ってしまうってことか。何だか恐ろしい話だな」
「図書室さあるがら、読んでみれば?」
「夏休みの宿題で手一杯で、読書する暇はねぇよ」
「ふーん、読書する暇もねぇほど、勉強してるんだ?」
「いや、そんたに、勉強してる訳じゃねぇよ。我は読書する習慣がねぇがら…」
「タゲは、理系クラスだべ?」
「んだよ。大学も理数系の学部に進学しようど思ってらんだ」
「せば、絶対に読んでおいて損はねぇど思うよ」
「んだな、せば今度読んでみるよ」

 日本では、「沈黙の春」ならぬ、「沈黙の夏」が始まっている。鳥よりも食物連鎖の下層にいる虫や蛙が激減し、その鳴き声は確実に減少の一途を辿っている。岳実たちが、大人になる頃には、蛍は絶滅しているかも知れない。コウノトリやトキなどの一部の鳥類は、既に日本で絶滅している。静かに、そして確実に、「沈黙の春」は始まっているのだ。

 第23章 終了