第18章/生卵ご飯の美味しい食べ方

 夕暮れ時、ヒグラシが鳴いていた。
 洋子がプレイグラウンドに佇(たたず)み、ヒグラシの声に耳を澄ませていた。
 岳実は背後からこっそり近付き、肩に手を伸ばした。すると、シャボン玉のような虹色に輝く膜が洋子を包み込んだ。岳実が突き破ろうと体当たりすると、膜は破れて岳実の顔にへばり付き、ストッキングを被った犯罪者ような顔になった。
「きゃー、変態」洋子が悲鳴を挙げて走り去った。
「待って、ヨッコ」と叫ぼうとしたが、口が膜で塞がれて声が出ない…息ができずにもがいている所で目が覚めた。

 岳実は、顔の上に乗っていたタオルケットを壁に投げつけた。
「くそー、何が変態だよ」と、叫んだ。
 外は明るかった。網戸からは、涼しい朝の空気が入りこんでいた。網戸を開けて外を眺めると、霧が立ち込めていた。
 霧中の杉木立は輪郭だけがぼんやりと浮き上がり幽玄な山水画のような風景が広がっていた。8月に入ると朝の空気に秋の涼気が混じり始める。喧しく鳴いていた郭公(カッコウ)の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。北国の夏は短い。

 垂れてきた鼻水をズルズルと啜(すすり)りながら部屋を出て台所に向った。鳥の子色の卵が籠に山盛りに入っていた。母が、産みたての卵を実家から貰ってきたものだ。母の実家では比内鶏を飼育していて、時々、貰ってくる。

 その日は、朝ごはんに生卵を掛けて食べる事にした。黄身がプリッと輝いて、白身もプルッと張りがある。まるで、グラビアアイドルのバストのようだ。黄身と白身の間にある白い胚を、箸で取り出そうとした。こいつが曲者(くせもの)で新鮮な卵ほど取りづらい。苦戦しつつも胚を取り出し、割った殻の中に捨てた。これで準備は整った。
 箸で黄身に十字に切れ目を入れると、黄身は細胞分裂したように均等に四つに分かれた。新鮮な黄身は簡単には崩れない。そう簡単に、人間の軍門に下るものか、という気概すら感じさせる。

 皿を少し傾けて攪拌(かくはん)し、黄身と白身の混じり具合を見計らって醤油を垂らした。それからさらに攪拌して、卵と醤油を馴染ませた。熱々のご飯が湯気を上げて待ち構えている。しかし、ご飯の上から直接掛けるのは素人のすること。そんな手抜かりはしない。
 箸をご飯に突き刺して、底の茶碗まで縦穴を貫通させた。穴の中にゆっくりと生卵を注ぎ、溢さないように慎重にかき混ぜた。満遍(まんべん)なく交じり合った所で、箸を斜めに寝かせ、空気を鋤き込むように掻き混ぜた。細かい泡と粘り気が出てくれば、生卵ご飯の完成だ。
 生卵ご飯を口に運んだ。口の中に甘みを残しつつ、吸い込まれるように喉の奥に落ちて行った。

 岳実は普段、ご飯は1杯しか食べないが、その日は、3杯食べた。4杯目もいけそうだったが、午前中に練習試合があったので止めた。
 クマのぷーさんでもあるまいに、食べすぎで動けなくなってしまっては洒落にならない。練習試合に向けて燃料補給はばっちりだ。後は実力をどれだけ発揮できるかだ。
 「軽く倒してやるよ」と洋子に大口を叩いた手前、負けるにはいかない。もし負けたら、口だけの男と思われてしまう…岳実は気合を入れて、練習試合に向った。

 第18章 終了