第17章/女心と夏の雲

 ハチ公温泉を出てから、洋子と二人でスポーツ店へ向かい、田園の中の道を二人で自転車で走った。稲葉の間から稲穂の赤ちゃんが顔を出していた。実りの秋が少しづつ近づいている。時折、風の忍者が稲葉の上に足跡を残して駆け抜けて行った。
 沿道には、鮮やかな黄色の花が群生していた。
「オオハンゴンゾウ、綺麗だね。ねぇ見て、花びらが反り返ってるよ」
 洋子が、自転車に乗りながら指差した。
「何でだろう?最近の猛暑のせいがな?」
「多分、暑さのせいがな。何だか、バトミントンの羽根みたいだね」洋子は微笑んだ。
「バトミントンの花って呼ぶことにするか」
「ハハハ、面白いね」洋子は声を上げて笑った。
 米代川では、ゴム製のオーバーオールを着た釣り馬鹿たちが、鮎釣りに精を出していた。猛暑の中、何時間も釣りを続けているのだから余程の物好きだ。数百年後には、彼らの子孫は河童に進化しているに違いない。

 米代川を過ぎて、民家の立ち並ぶ街道に入った所で、赤信号で停まった。
「ふー、今日は「結構暑いね?」洋子が言った。
「んだな。街中は、余計に暑く感じるな」
「温泉さ入ったばっかりだしね」
 洋子が、首に掛けたタオルで汗を拭った。
「折角、温泉さ入ったやず、また汗かいてしまったな」と、苦笑いした。
「買出しに付き合わせて、ごめんね」
「何も気にしねぇで、そういう意味で言ったんでねぇよ」
「長木川の公園で一休みするべし」
「んだな、ちょっとジュースでも飲むか」

 長木川は、秋田と青森の県境に源を発し、大館市の中心部を流れて米代川と合流する。米代川の流域は、秋田杉や秋田蕗の産地として有名だ。大きくなると高さが2mに達する巨大な蕗だ。秋田犬も大型犬だし、秋田の小中学生の平均身長も全国一だ。秋田では人から蕗までビッグサイズだ。おそらく、秋田の風土が、生き物を大きく育てるのだろう。
 長木川の堤防の藪で甘草(カンゾウ)の花が風にれていた。炎のような花には、荒々しい美しさと共に、飲み込まれそうな不気味さがあった。

 岳実と洋子は、自販機でジュースを買い、木影の芝生に座った。上流の方向に坊主頭のような鳳凰山(ほうおうざん)が見えた。山肌に、大の字が刻まれていた。
 夏祭りの夜には、大文字焼きが行われる。大文字焼きと言えば京都が有名だ。京都は大文字以外の字もあるが、大館は大文字だけだ。しかし、文字の大きさは大館の方が大きい。何れにしても、人々の無病息災を祈る気持ちは同じだろう。

 大館には幾度も大火にみまわれたという悲しい歴史があった。炎で『大』の字を描く事は、大火を暗示するようにも思える。しかし、夜空に大文字を灯すことで、火に対する畏敬の念を新たにすると同時に、大火の犠牲者に供養を捧げているのだ。大文字祭りが、送り盆の8月16日に行われるは、先祖の霊を黄泉の国へ帰すための送り火という意味合いもある。送り火が焚かれる山として鳳凰山が選ばれたのは、大火から不死鳥のように街並みや活気が蘇りますように、という願いも込められている。

「おお、やってるね」洋子が呟いた。
 彼女の視線を辿ると、野外のバスケットコートで、小学生くらいの兄と妹が遊んでいた。茹だるような暑さをもろともせずに、シュートを打っていた。
「ヨッコも小さい頃、ああやって兄さんにバスケして遊んでもらったなぁ」
「航貴さんとバスケできたなんて羨ましいよ」
「出来過ぎる兄貴ってのも、迷惑なもんだよ」洋子は、複雑な表情をした。
「内緒にしてだもんな」
「できれば知られたくなかったんだ」
「もったいねぇな」と、ぼそりと呟いた。
「何が?」洋子は、怪訝そうに首を傾げた。

「もし、我だったら、自慢しまくるなぁ。我の兄貴が、全日本選手なんだぞって」
「タゲって単純だね」
「そんな単純でねぇよ。こう見えても色々と悩みはあるんだ」
「ふーん、そうなんだ。どんな悩み?」洋子が、岳実の瞳を覗きこんだ。
 岳実は、洋子への想いを見透かされるような気がして、視線を逸らした。
「内緒だよ」
「何だ内緒か、つまんないの…所で、タゲは兄弟いるの?」
「いねぇよ。一人っ子だ」と、ぶっきら棒に言った。兄弟の話は、あまり、したくなかった。

 兄弟の話の落ちは、いつも決まっている。一人っ子と答えると、相手は納得したような顔をする。「こいつが我侭なのは一人っ子だからだ」と心の中で納得しているのだ。目は口ほどに物を言うとは昔の人は巧い事を言ったものだ。
「一人っ子って羨ましいな。何でも買ってもらえて、お年玉も独り占めだし、他の兄弟と比べられることもないし羨ましいな」
「まぁ、そういう利点もあるな。んでも、周りからは、一人っ子っていう目で見られるのは嫌なもんだよ。んで、ヨッコは、何人兄弟なの?」
「3人だよ。2歳下に弟もいるんだ」
「2人も兄弟がいて、羨ましいな」
「そんなことなねぇよ。兄貴は威張ってるし、弟は生意気で言うこと聞かないし。二人とも家事は全くしないのに、ヨッコだけが手伝わされるんだ。子供の頃は、ヨッコも男だったら良かったのにって思ったこともあったよ」
「困るよ。ヨッコが男だなんて」と、目を見開いた。
「どうしたのタゲ、そんたにムキになって、変な顔」
 洋子は、茶化すように言って、クスクス笑った。
「だって、ヨッコが男に生まれてきた方が良かったなんていうから…」
「昔の話だよ。今は、女で良かったって思ってるよ」と微笑んだ。

 心を撫で下ろしたと同時に不安になった。洋子が女に生まれて良かったと思い直した理由は何だろう。彼女にそう思わせる男が現れたからだろうか。自分以外の誰かだろうか?そう思うと胸が痛んだ。こんなに切ない気持ちになったのは生まれて初めてだった。
「ちょっと、タゲ、どうしたの?」
「何でもねぇよ。ちょこっと、考え事だしてたんだ…」
「考え事?って、何考えてたの?」
「えっ、いやぁ~、そうのう…鳳凰山の形が正規分布の形に似てるなって思って…」と、心の内を悟られないように、ごまかした。
    
「正規分布って統計の?タゲって変わってるね」
「そんな変な目で見ねぇでよ。ただ数学が好きなだけだよ。ちなみに尊敬する数学者はガウスだな。逸話で、子供の時に、1から100まで足したら幾つになるかを質問されて、瞬時に5050って答えたんだ」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃねぇよ。0+100=100、1+99=100, 2+98=100,…49+51=100で50回繰り返すから100×50=5000,それに残りの50を足して5050っていう訳だ」
 自分が、まるで、19世紀の大数学者ガウスにでもなったかのような気持ちで説明した。
「やっぱり変わってるね。まぁ、ガウスの話はおいておくとして、スリーオンスリーの大会では絶対に優勝しようね。ヨッコは、何としても、兄さんに勝ちたいんだ」
「んだ。頑張って、優勝するべし」と、自分自身に言い聞かせるように言った。

「それにしても、兄さんがあの有名な航貴さんだなんて、本当びっくりしたよ」
「言っておくばって、変に気を使わねぇでね」
「うん、分がったよ」
 岳実は、洋子が次の練習を夕方にして欲しいといった理由を聞こうと思った。しかし、言い出せなかった。その理由が、もしデートだったら…と思うと怖くて聞けなかった。
 洋子の笑顔が、目の前にあった。しかし、二人の間には、目に見えないジャボン球のような膜があった。洋子に向かって手を伸ばした瞬間、パンッと破れて、彼女は驚いて岳実の元から逃げ去ってしまうのではないか。岳実はそれを恐れた。

 休憩を終えてから、堤防の上に停めてある自転車に向かって歩き始めた。
「あっ、鶏の花だ」洋子が、はしゃいで、歓声をあげた。
 彼女は、歩道沿いに咲いていた立ち葵(タチアオイ)の花に手を伸ばした。桃の果肉のような色だった。ガクと花びらを上手に剥ぎ取り、細長い雌蕊(めしべ)だけを残し、それを、おでこに貼り付けた。
「コッコ、コッケー」洋子が鶏の真似をした。
 彼女の表情が可笑しくて、岳実は大声で笑った。
「子供の頃、ナヅギさ付けてよく遊んだんだ。粘り気があるがら、良くねっぱるんだ」
 洋子は自分のおでこを指差した。ちなみに、【ナヅギ】とはおでこと言う意味だ。
「鶏っていうよりは、ユニコーンみたいだよ」と、茶化した。
「鶏の物真似には自信があったのに。子供の頃は、鶏小屋の前で鳴き真似すれば、雄鶏が鳴き返すくらい上手だったんだよ」
「ヨッコの家では、鶏を立ででらんだ?」
「タゲの家でも立ででらべ?」
「いや、我の家では、立ででねぇよ」
 と、手を横に振った。ちなみに、ここで言う【立てる】というのは、飼うという意味だ。
「比内の人は、みんな比内鶏を飼ってるんだと思ってだよ」
「それは偏見だよ。大館の人が、みんな、秋田犬を飼ってる訳じゃねぇべ?」
「たしかに、皆飼ってねぇーな。んでも、ヨッコの家では秋田犬を飼ってらよ、タギジ号って言うんだ。」
「何だか、車とかバイクの名前みたいだな」と、小馬鹿にして笑った。
「名前は,父さんが、小林多喜二にちなんで、付けたんだ。タギジ号の父親は、本部展覧会で名誉章をとった事もある由緒ある秋田犬なんだよ。伯父さんが、秋田犬のブリーダーやってるがら貰ったんだ」
「へぇ、大したもんだな」
「すごく、めんこいんだ」洋子が目を細めて笑った。
「犬よりも洋子の方がめんこいよ」
 そう言いたかったが、恥ずかしくて言えなかった。

 スポーツ用品店に到着すると、バスケットコーナーに向かった。
「タゲ、この空色のバスパン、どう?」洋子が、品物を手にとって見せた。
「それは、ノースキャロライナ大学のレプリカだよ。マイケル・ジョーダンの母校でバスケットの名門校だな。んでも、ちょっとミーハーな気もするな」
 本当は、喉から手が出るほど欲しかったが、軽薄な男と思われたくなかったので、見栄を張った。

 洋子が、バスパンを岳実の前に合わせて言った。
「似合うよ、タゲ。なかなか格好いいよ」
「本当?せば、このバスパンはいて、ジョーダン張りのプレイするがな」
「ジョーダンみたいな活躍を期待してるよ。さて、バスパンはこれで決まり。次は、Tシャツだな」
 店頭にあるTシャツを見てみたが、空色は見当たらなかった。
 洋子が、近くを通りかかった店員に尋ねた。
「すいません。このバスパンと同じようなTシャツってありませんか?」
「水色は置いてねぇすな」店員はぶっきら棒な口調で答えた。
「在庫とかカタログはねぇんだすか?」
「んだば店長さ、ちょっと聞いてみるために、僅(わんつ)か待ってで下さい」
 無愛想な店員は、店長を呼びに行った。

 数分後、白髪交じりの頭に、金縁の眼鏡を掛けた中年男が現れた。
「どうも、店長の武山です。何でも空色のTシャツが欲しいと…」
「これと同じ色のTシャツが4枚欲しいんです」
 洋子は、ノースキャロライナモデルのバスパンを見せた。
「4枚も?若しかして、チームで揃えるの?」
「スリーオンスリーの大会さ出るんで、ユニフォーム代わりに揃えようかと思って」
「ほう、それはそれは。実は、私ども武山スポーツでは、その大会を協賛してらんだよ」
 店長は満面の笑みを浮かべて、大袈裟に頷いた。
「そうみたいですね。私、大会の実行委員やってるんで知ってましたよ。パンフレットさも、広告が載ってました」洋子はパンフレットを取りだして、ニッコリと笑った。
「若いのに実行委員だなんて大したもんだ。そう言えば、今年の実行委員には、鳳女子のキャプテンがいるって会長さんが喋ってらっけな。若しかしておねぇちゃんだが?」
「はい、私です」
「せば、あんたが、航貴くんの妹さん?」
「はい、妹の洋子です」
「やっぱり兄妹だな、何処となく似でるな。まぁ、ここだけの話、おねぇちゃんの方が、めんこいのは間違いねぇな。航貴くんは、どちらかというと侍のような厳しい顔つきだばって、おねぇちゃんは、優しそうな顔っこしてるもんな」
「あら店長さん。女子高生相手に、お世辞なんか使って…お上手ですね」洋子は相好を崩した。
「お世辞なんかじゃねぇよ。私が、もう20歳若ければ、モーション掛けてたろうな」
「もう、店長さん。止めてくださいよ」
 嬉しそうに笑っている洋子を見て、岳実は少し腹が立った。
 岳実は、お調子者の店長をキッと睨みつけた。脂ぎった顔、出っ張った腹、嘗めるような視線。中年男特有のいやらしい雰囲気を発していた。
「この助平おやじが…」と心の中で罵(ののし)った。

 店長は、岳実と目が合ったが無視して目を逸らして言った。
「んだば、ちょっと立ち話もなんだから、カウンターで」
 店長は、二人を商談机に案内しカタログを見せながら説明をした。
「一口に空色って言っても何種類かあるがら選んで下さい」
「ヨッコはこれが気に入ったな」
 洋子は、淡い空色に巻雲のような模様が入ったデザインを指差した。躍動感があって、風を思わせるデザインだった。岳実も、一目でそれが気に入った。
「んだば注文するは、このデザインで決まりと。せば、サイズはどうしますか?」店長が聞いた。
「LサイズとLLサイズを2枚ずつ、お願いします」洋子が答えた。
「在庫の確認するがら、ちょっと待ってな」
 店長が電話のダイヤルを回した。
「毎度どうも。タゲヤマだ。この所あっちい日が続くな。夜も寝苦しいくって、何だか体調が吾妻(あづま)しいぐねぇな。んでよ、仕事の話なんだばって、Tシャツ4枚、在庫の確認して欲しいんだ。カタログ品番のAB1だ。サイズは、Lが二つとLLが二つだ。在庫あれば、すぐ欲しいんだ。ちょっと、今すぐ調べでけれ。んだな、分かったら折り返し、電話けれ」店長が電話を切った。

「在庫、ありそうですか?」洋子が尋ねた。
「今、調べてもらってらがら、折り返し連絡くるよ。それで、Tシャツなんだばって、若し良かったらチーム名とか入れるが?」
「えっ、そういうのも出来るんですか。良いですね。タゲ、入れてもらおうか?」洋子が目を輝かせて岳実に聞いた。
「いいね。んでも、何ぼぐらい掛かるんだべ?」と、店長の顔を窺った。
「それは、サービスするよ。プリント代は無料」
 店長が、金縁眼鏡に手を掛けて得意げな表情をした。
「本当ですか、やったね、タゲ」洋子が岳実を見てウィンクをした。
「ただし、条件が一つある」
「何ですか?」洋子が身を乗り出して聞いた。
「Tシャツに、私ども店の名前も入れさせてもらいたい。それが条件だな」
「店の名前ですか…字を入れる場所と大きさは?」
「場所は背中の襟の所だな。大きさは、勿論、チーム名よりも小さくて結構だ」
「どうしようかな…」洋子が腕組をして考えてから尋ねた。
「店の名前を入れるついでに、選手の名前と背番号もプリントできますか?」
「ああ、もちろん」
「無料で出来ますか?」
「おねちゃん、可愛い顔して、中々、商売上手だな。むー、分かった。それもサービスするよ」
「本当ですか、やったね」洋子は、岳実に向かって微笑み掛けた。
「それでは、商談成立ということで」店長が手を差し出して、二人と順番に握手をした。

 店長は、おもむろに胸ポケットからタバコを取り出し、ジッポで火をつけた。そして、旨そうに煙を吐き出しながら話した。
「所で、大会には、航貴くんも出るらしいな、いやぁ、楽しみだな」
「毎年、トンボ帰りのくせに、今年はスリーオンスリーの大会があるから、一週間も休みもらって、優勝するんだって張り切ってるんです」
「いやぁ、地元のために頑張ろうという愛郷精神はすばらしいな」
「地元のためっていうより、単なる目立ちたがり屋ですよ。社会人になったくせに、おとな気ないったらありゃしない」洋子が唇を鳥の嘴(くちばし)のように尖らせた。
「協賛してる私どもとしては、彼のような有名人が参加するのは、願ったりかなったりだな。やっぱり、航貴くんがいるのといないのでは、注目度が違うからなぁ」
 店長は、朗々と笑ってから、タバコを美味そうに吸った。
「それに妹さんも出るってことは、兄妹対決の可能性があるってことだな」
「当たるとしたら決勝ですね」 洋子が言った。
「決勝で兄妹対決か、こりゃ面白いな。んでも、最終的には、航貴くんのチームが優勝で間違いねぇな」
「兄のチームと決勝で当たったとしても、勝つのは、うちらです」洋子がムキになって言った。
「さすがは航貴くんの妹だけあって、負けん気が強ぇな。我が社としては、あんた方のチームが勝てば勝つほど、広告効果が上がるから期待してるよ」
 店長は笑ったが、目は笑っていなかった。その時、電話が鳴った。
「はい、もしもし。在庫はあるが。うん、うん。んだば、プリントのデザインを後で送るから、宜しく頼むわ」店長は、受話器を置いた。
「Tシャツの在庫は大丈夫だ。さてと、せば、細かいデザインはどうするがな?」
「チーム名を胸に、背番号と名前を背中にお願いします」洋子が答えた。
「プリントする字の色は、何色が良いの?」
「白でお願いします」
「了解。所で、チーム名は何っていうの?」
「ブルーウィンドです」
「ほう、今流行りの横文字だな。青い窓って意味だな。今時の若げ者は不思議な名前つけるなぁ。オジサンからすれば、ちょっと意味不明だな」
「ブルーウィンドは、青い窓じゃなくて青い風って意味です。窓はウィンドウですよ」洋子が間髪入れずに突っ込んだ。
「あぁ、風ね。いやいや、おべぇだ振りはするもんでねぇな。わっはっは」店長が、自分の間違いを笑い飛ばした。
 ちなみに、【おべぇだ振り】というは、知ったか振りという意味だ。
「そのブルーウィンドってのは、カタカナで良いかい?」
「英語のスペルで、お願いします」
「んだば、間違うといけねぇがら、ここさ、書いてちょうだい」洋子が、ボールペンでBLUE WINDと書いた。

「後は、選手の名前と背番号も一緒に、書いておいてけれ」
 店長がそう言って、煙草の灰をトントンと灰皿に落とした。
「タゲは何番が良い?」
「23番がいいな」
「マイケルジョーダンの番号だね、ベタだね」
「好きなんだもん、しょうがねぇべ。ベタでもいいよ。んで、ヨッコは?」
「ヨッコは、9番にしようかな」
「芹奈と慎ちゃんのは、どうする?」
「芹奈さは、明日の部活の時に聞いておくよ。タゲも慎ちゃんさ聞いておいて」
「了解。次のスリーオンスリーの練習の時にヨッコさ伝えれば良いがな。んでも、そのスケジュールで、大会までに、プリント間に合うがな?」岳実は店長に視線を送った。
「デザインさえ決まれば、プリントは数日でできるよ。納期は、デザイン決定から3日みてもらえば大丈夫だな」
「来週の水曜日でも間に合いますか?」
「それはちょっとギリギリだな。大会に間に合わせるってば、少なくても明後日には決めて欲しいな」店長が渋い顔で卓上カレンダーを眺めた。
「せば、今晩にでも芹奈さ電話して聞いてみるから、タゲは、慎ちゃんさ聞いておいて」
「うん、分かった」
 返事をしながら、これは、洋子の電話番号聞く千載一遇のチャンスだと気付いた。そして、胸を高鳴らせて洋子に尋ねた。
「慎ちゃんの背番号を聞いだら、ヨッコさ連絡すれば良いがな?」
「んだな」
 洋子は頷いた。
 これぞ、棚から牡丹餅(ぼたもち)だ。若しかしたら、電話番号を知っていれば、後で、デートに誘えるかも知れない。
 やったーぜ!頭の中では、雀と鷹が手を取り合ってジェンカを踊っていた。
 ♪ レッツ、キッス、恋をして♪レッツ、キッス、デートする
 ♪ レッツ、キッス、その後は、二人だけのお楽しみ…♪

 そんな妄想をしつつ、ニヤけていると、洋子が尋ねた。
「タゲ、慎ちゃんの電話番号を教えてよ」
「へっ、慎ちゃんの?なして、慎ちゃんの電話番号が必要なの?」
 岳実は、上擦った声で言った。
「やっぱり、ヨッコが、芹奈と慎ちゃんさ電話して聞くよ。それが、一番、手っ取り早いべ?」
「確かに手っ取り早いばって…。何だかなぁ、うーん…」
 欣喜雀躍(きんきじゃくやく)していた心が、槿花一朝(きんかいっちょう)の如く、しぼんだ。
 岳実は、しぶしぶ、慎一郎の電話番号を洋子に伝えた。
「店長さん、せば、明日には連絡できると思います」
「明日なら十分に間に合うよ」
「それを聞いて安心しました。タゲ、これで大丈夫だね」
「んだな。まぁ、大丈夫だなぁ…」
 千載一遇のチャンスを逃したショックで、Tシャツの納期なんて、どうでもいいという気分だった。神も仏もあったもんじゃない。あの素晴らしい一瞬の幸福を返してくれ!と心の中で、大声で叫んだ。

 店長との商談が終わると、洋子は嬉しくてしょうがないという雰囲気だった。
「ヨッコね、リスバンも買おうと思ってたんだ」
「若しかして、それも空色?」岳実は茶化すように言った。
「タゲの意地悪。赤のリスバンだよ。鳳女子のユニフォームさ合わせるんだ。もう一回、バスケコーナーまで付き合ってよ」
 リスバンと言うのリストバンドの略で、手首に嵌める厚手の布のことだ。腕時計ならぬ、腕タオルだ。試合中は、タオルで顔の汗を拭けないので、リストバンドで汗を拭く。
「ねぇ、タゲ。水色のリスバンもあるよ」
「色んな色があるもんだな」
「最近、NBAの影響で流行ってるがらね。さて、どうしようかな。赤を買おうと思ってだばって、水色も買っちゃおうかなぁ。そうだ、タゲもリスバンする人だべ?」
「うん、時々、してらばって…」岳実は、水色のリスバンに躊躇した。
「二人で一緒に揃えようよ」洋子が微笑んだ。
「よし、せば、我も買うよ」
 「一緒に揃えよう」という洋子の言葉で、迷いは、マゼラン星雲辺りまで吹っ飛んだ。二人がコートで、ペアルックのリスバンをしている情景を思い浮かべると、嬉しくて仕方がなかった。

 レジで、リスバン代を支払っていると、奥の机で、店長が煙草をふかしながら、大きな声で電話をしていた。
「お前だったら、興味持つど思ったんだ。どうだ、結構、面白いネタだべ。うん、うん。あぁ、間違いねぇよ、本人から聞いたんだがら。良いネタ提供したんだがら、まぁ、ビール一杯ぐれぇは奢ってもらわねぇとな。北秋新報(ほくしゅうしんぽう)さんは、大そう儲かってるって話は息子から聞いてるよ。編集長の権限で、ビアガーデンの席の一つや二つ、経費でパッと下りるべ。兎に角、注目が上がるのは間違いねぇがらよ。協賛して金出してる我が社としても注目が集まってもらわねぇと困るんだ。うん、うん。んだば、まんつ宜しく頼むな。それと、担当記者は、息子で頼むよ。ちょっと花持たせてやってけれや。んだば、まんつ、よろしく頼むわ」
 店長が電話を切って視線を上げると、岳実と目が合った。彼は決まりが悪そうに愛想笑いをしてから、煙草を咥えたまま席を立って奥の部屋へ消えていった。

 洋子と一緒に店を出て、停めていた自転車に乗った。
「タゲ、明日は大館商工との練習試合なんだべ?」洋子が尋ねた。
「んだ。軽く倒してやるよ」と、強がった。
「おっ、強気だね。頑張って勝ってね。今日は、どうもありがとう。せば、また次の練習でね。バイバイ」洋子は、手を振って帰っていった。

 帰路の途中、岳実は米代川の橋の上で自転車を停めて休憩した。ジュースを飲みつつ湧き上がる入道雲を眺めた。
 洋子の電話番号を聞き逃した事が悔しくて頭から離れなかった。直接二人に電話した方が早いからと言う理由だったが、本当は岳実に電話番号を知られたくなかったのではないか?もしそうだとすれば…岳実は、切なくなった。
 次のスリーオンスリーの練習を、夕方に変更したのも、デートが午前中にあるからに違いない。うだつの上がらない岳実とバスケをするよりも、好きな男とデートする方が楽しいに決まっている。
 洋子の親しみ溢れる笑顔は嘘なのか…あの笑顔が、堪らなく好きだった。しかし、その笑顔は、自分にではなく、バスケに向けられたものかも知れない。さっき、お揃いのリスバンを買ったのも、単にバスケの仲間としてであって、特別な意味はないのかもしれない…

 女心と夏の雲。
 まばゆく輝いて見えるのに、手を伸ばしても決して捕まえる事ができない。もどかしさにさいなまれながら、炎天下の田園の道で、自転車を漕いだ。

 第17章 終了