第15章/のぞき見

 練習試合後、運動公園の一角にあるベンチに腰掛けた。
「みんな、ご苦労さんでした。さてと、これから、どうしよっか?」芹奈がボールを小脇に抱えながら尋ねた。
「いっぱい汗かいたがら、シャワーでも浴びたい所だな」洋子が首に掛けていたタオルで額を拭った。Tシャツが、汗で濡れそぼり、ブラのラインがくっきりと見えた。

 岳実は、思わず生唾を飲み込んだ。思わず視線が胸元へ行ってしまう。これ以上、ジロジロ見ていると、助平なことを想像しているのがばれる気がしたので、視線を外した。
「ここさは、シャワーの設備はねぇよ」芹奈が言った。
「今日は、汗だくになったがら、我もシャワー浴びてぇな。近くに温泉でもねぇの?」慎一郎が滴る汗を拭った。
「んでも、暑いのに温泉ってのは、どうだべな?」芹奈が小首を傾げた。
「温泉にもシャワーはあるべ」慎一郎が言った。
「んだば、温泉さ入ってから弁当食べるべし。今日は気合入れて作ってきたんだ」洋子が、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ここから一番近い温泉って何処?」慎一郎が尋ねた。
「達子森の裏手に、ハチ公温泉があるよ。チャリで5分もあれば着くよ」岳実は答えた。
「ようし。せば早速、ハチ公温泉さ行くべし」洋子が、首に掛けていたタオルを畳んで頭に乗せて、風呂に浸かる真似をしておどけた。
 岳実は笑いながらも、彼女の項から鎖骨、胸元へと視線を流した。そして、入浴中の洋子の裸体を想像してドキドキした。
 
 ハチ公と言えば、渋谷駅前のハチ公像が有名だ。東京大学の教授に飼われていたハチは、主人が帰ってくる時間になると、毎日、渋谷駅まで迎えに出ていた。主人が、大学の講演中に脳溢血で急死した。しかし、ハチは、主人の死後も帰ってくることを信じて、幾度も渋谷駅の改札前で待っていた。これが、新聞に取り上げられ、忠犬ハチ公として一躍有名になった。さらに、ハチ公のエピソードが小学校の教科書に取り上げられ、その名は不動のものになった。その美談は広く海外にも紹介され、世界中の愛犬家に、秋田犬の名を知らしめた。
 ハチ公の故郷である大館市には、ハチ公にちなんだものが数多くある。市内の至る所で、ハチ公の姿を見ることができる。彫像はもちろん、路線バスやマンホール、看板や幟(のぼり)、お菓子など、ハチ公に由来した物が街に溢れている。
 
 数十年前、ハチ公の生家がある大子内(おおしない)という地区の近くに温泉が湧き、ハチ公温泉と名付けられた。大子内は昔から秋田犬の繁殖が盛んで、今日でも、たくさんの秋田犬を飼育している地区だ。
 ちなみに、秋田犬は、本来、大館犬と呼ばれていた。それが、天然記念物の指定を受ける際に、秋田犬という呼称に変わった。つまり秋田犬は秋田の何処にでもいる訳ではなく、大館地方の特産なのだ。
 岳実たちは、運動公園から温泉まで、緑陰の道をのんびりと走った。途中、木陰に隠れるようにして、大館市の境界を示すハチ公マークの標識が立っていた。温泉の門柱にはハチ公の像があった。台座の上にチョコンと座っている姿が愛らしかった。
 洋子が、「めんこいなぁ」と言って撫でた。岳実はハチ公が羨ましかった。

 昼飯時ということもあり、駐車場には車が一台もなかった。受付で、団扇を扇いでいるおばさんに、200円の入浴料と100円の貸しタオル代を支払った。館内は秋田杉をふんだんに使った造りになっていた。人肌のような柔い木目が、気分を和やかにさせてくれた。ホールの中央に六角柱の大黒柱が立っていて、柱に沿って上を見上げると、天井が六角錐のドーム型になっていた。ハチ公にあやかって八角ならば、洒落が利いていると思えるが、何故、六角なのだろう?と不思議に思った。
 ホールを抜けた廊下の突き当たりが、風呂場になっていた。
「芹奈。あんまりな長風呂するなよ」岳実は、言った。
「分がってらよ、せば、45分後に休憩室に集合するべし」
「15分もあれば、十分だべっしゃ。相変わらず、長風呂だな」
「乙女は、色々と時間が掛かるんだよ。ねぇ、ヨッコ」
「んだ、んだ。いろいろとね」
 二人は、顔を見合わせて頷き合った。
「せめて、30分ぐらいにしてよ。腹へってしょうがねぇよ」と、腹の虫の意見を代弁した。
「しょうがねぇな。せば、なるべく早めに上がるよ」と言って赤い暖簾を潜って行った。
 男風呂には先客が一人、いや、一匹いた。ハチ公だった。浴槽の横に行儀よく座ったハチ公像が、入浴客を出迎えていた。
 風呂場は、20畳ほどの広さがあり、湯船は8畳ほどの広さがあった。洗い場には薄碧色の十和田石が敷かれていた。長年にわたり温泉に晒されたせいで、表面が凸凹になり滑りにくくなっていた。
 男風呂と女風呂とを仕切る壁の向うから、芹奈と洋子の声が聞こえてきた。浴室特有の反響音が邪魔して、何を言っているか聞き取れなかった。
 シャワーで股間と脇を軽く洗い流してから湯船に浸かった。お湯は無色透明で爺様が好む熱い湯だった。窓の向こうに、達子森が見えた。その緑の中に、巨大な貯水槽のようなものがあり、壁に秋田犬の親子の姿が描かれていた。
「慎ちゃん、今日のゲームは、なかなか良かったな」と、湯に浸かりながら言った。
「何もリバウンドだけだ」
「リバウンドだけでも、大したもんだよ。慎ちゃんの頑張りがねがったら、今日のゲームは、負けてだな」岳実が褒めると、慎一郎は照れ笑いを浮かべた。
「それに引き換え、我はボロボロだったよ」と、苦笑いを浮かべた。
「その内、良くなるから、あんまり気にするな」
 慎一郎は両手で湯を掬って、顔をジャバジャバと洗った。
「タゲ、一つ聞いても良いが?」
「どうした?」
「なして、芹奈ちゃんが長風呂だって知ってらの?」慎一郎の目に、詮索の色が浮んでいた。
 そう言えば、芹奈の事を中学の同級生で同じバスケ部だったとしか紹介していなかった。
 改めて、幼馴染であること、彼女の母が亡くなってから、しばし岳実の家で面倒を見ていたことなどを説明した。
「ふーん、そうだったんだ」
「まぁ、腐れ縁っていうのがな」
「それで、二人は付き合ってらの?」
「まさか、あんなジャジャ馬とは付き合えねぇよ」と、手を振って否定した。
「仲が良いから、付き合ってるのかと思ったよ…」
「家族みたいなもんだな。妹っていうよりは、姉さんみたいな感じかな」
「確かに姉御肌だな」慎一郎は頷いた。

 洗い場で体を洗ってから、もう一度、湯船に浸かった。
 壁の向こうから、芹奈と洋子の楽しげな話し声が耳に届いた。不埒な考えが浮かんできたので、払拭する為に湯の中に潜ったが、治まるどころか、更に増幅してしまった。
 水面から顔を出した岳実は、慎一郎を手招きして耳元で囁いた。
「ちょっと、覗いてみるべし」
「えっ、それはまずいよ。見つかったらどうする」
「大丈夫だ。風呂場には我んどしかいねぇよ」
 小声でそう言うと、慎一郎は浴室を見回してから小さく頷いた。
 二人は、湯から上がって、そろりそろりと歩いた。そして、洗い場にある座椅子を、音を立てないようにして、ピラミッド状に積み上げた。二人は無言でジャンケンをした。
 岳実が勝ったので、椅子を一段ずつゆっくりと上がった。一番上まで上っても、女風呂は見えなかったので、壁の上に手を掛けて、懸垂をするようにして顔を上げていった。
 ドックン、ドックンと鼓動が耳に響いた。心臓が耳の中に移動してきたみたいだった。
 あと少しで女風呂が見えると思ったその時、
「おーい、タゲ。覗ぐなよ」
 芹奈の大きな声が風呂場に、こだました。
 岳実は、モグラ叩きのモグラのように頭を引っ込めた。驚きで口から心臓が出てくるかと思った。
「キャー、タゲの助平」洋子の茶化す声が聞こえた。
 岳実は、急いで椅子から下りて返事をした。
「な、なんも覗いでねぇよ。ば、馬鹿なこと言うなよ」
「急に静かになったがら、ちょっと声を掛けてみたんだ。まさか本当に、覗いでねぇべな?」芹奈が答えた。
「な、何も覗いでねぇよ。」
「そんな事より、我は、もう上がるよ。あんまり、長湯するなよ」と、捨て台詞を吐いて、脱衣所に向かった。

 休憩室の畳の上に寝転がって唇を噛んだ。もう少しで、洋子の裸を拝めたのに…しかし、あのまま顔を出していたら芹奈に見つかっていたかも知れない。
 悔しさと安堵が頭の中を行き交った。覗く時に躊躇しないで、パッと頭を上げてパッと下げれば、一瞬でも見られたかも知れない。
 10分ぐらい経って、慎一郎が風呂から上がってきた。
「ふー、いい湯だったよ」
「んだな。さっぱりしたな」
「いやぁ、良い物を拝ませてもらったよ」
 慎一郎が、意味深な笑いを浮かべた。
「若しかして…」と、固まった。
「積み上げた椅子を片付けるついでに、ちょこっと上がってみたんだ。いやぁ、二人とも、ナイスバディだったよ」慎一郎は、恍惚とした表情をした。 
 その時ほど、慎一郎の身長の高さを羨ましいと思った事はなかった。

 しばらくして、芹奈たちも上がってきた。洋子が、岳実の正面に座るなり言った。
「助平くん、上がるの早かったね。まさか、今度は、外から覗いてた訳じゃねぇよな?」
「ちょっと待ってよ。覗いでねぇって言ってらべ」
「それにしては、かなり、声が動揺してだよ。ねぇ、芹奈」
「あの慌てふためきようは、怪しいな」
「突然、あんたこと言われれば、誰だって驚くよ」と、言い訳に終始した。

 何だか、腑に落ちなかった。確かに、覗こうとしたのは事実だ。しかし、結局、覗けなかった。一方、ぬけぬけと漁夫の利を得た慎一郎が、何も言われないのは不公平だ。しかし、説明しても墓穴を掘るだけなので、何も言い返さなかった。

 第15章 終了