第11章/四股ふんじゃった

 突然、「スタメンは白紙に戻す」とコーチが宣言した。
 その言葉は選手を刺激し、競争意識を煽った。特に控えの選手たちの目の色が変わった。岳実にとっても、スタメンの座を奪う絶好のチャンスだった。居残りで取り組んできたスリーポイントシュートの練習の成果が現れ始めていたし、スタメンの久保田は最近、精彩を欠いていた。
 そんな中、成長著しいのが慎一郎だった。以前は周りの選手と噛み合わずミスが多かった。しかし、最近は落ち着きが出てきた。無駄な動きが減り、バスケット的な動きが板に付いてきた。特にボールをもらう直前の動きが格段に上達した。ゴール下で、いかに有利な体勢でボールをもらえるか、というのがセンターの伊呂波であり、基本だ。
 慎一郎は、芹奈が教えてくれた基本を愚直なまでに繰り返し練習していた。来週には、練習試合がある。相手は、同じ市内のライバル校である大館商工だ。
 能工との試合は、駄目元で当たって砕けろという感じだったが、大館商工との試合は絶対に負けられない試合だった。もし負ければ、県北ベスト4という目標は難しくなる。

 その日の練習の最後に、コーチが選手たちを集めて紅白戦をすると告げた。岳実はポイントガードとしてではなくシューティングガードとしてスタメンに選ばれた。チームの司令塔がポイントガードで、シューティングガードは特攻隊長のような役割で得点するのが仕事だ。野球でたとえるなら、打撃好調なキャッチャーが、リードが下手なので、ファーストで試合に出るようなものだ。
 コーチが紅白戦の説明をしている間に、1年目の女子マネージャーである真沙美が、スポーツドリンクやタオルを選手たちに渡してくれた。真沙美は、「マーちゃん」というニックネームで呼ばれていた。
 2年目の女子マネージャーである百恵が、スタメンに、ナンバリングを配った。ナンバリングと言うのは、数字が書かれたメッシュ地のタンクトップのことだ。

 岳実は、開き直って紅白戦に臨んだ。ゲームメイクは任せてシュートに専念した。それが功を奏して、面白いくらいにシュートが決まった。慎一郎はサブチームで、途中から紅白戦に出た。大きなミスもなくチームに溶け込んでいたが、相変わらずシュートが入らなかった。しかし、シュートを外してもリバウンドを取り、外してもリバウンドを取り、最後にシュートをねじ込んでいた。
 紅白戦は、一進一退の攻防が続き、岳実たちのスタメンチームが5点差で辛勝した。試合内容を見ると、スタメンと控えの実力は、かなり伯仲していた。

 紅白戦が終わって直ぐ、真沙美がスポーツドリンクを持ってきてくれた。
「タゲ先輩。ポカリが、まだ少し余ってらがら飲みませんか?」
「マーちゃん、ありがとう。頂くよ」と、喉を鳴らして全部飲んだ。
「今日は、スリーポイントが絶好調でしたね。格好良かったですよ」
 真沙美は、ふっくらとした頬に笑窪を浮かべた。
「今日は、自分でもびっくりするぐらい、スリーポイントが入ったよ」と少し照れながら言った。
「それに、今日は、スタメンチームでしたね」
「ポイントガードでねくってシューティングガードだったばってな…」と自嘲交じりに鼻で笑った。
「タゲ先輩なら、どっちのポジションでも出来ますよ。久保田先輩が下がった後は、代わりにポイントガードもやってだじゃないですか。ゲームをしっかりコントロールできてましたよ。絶対、タゲ先輩の方が上手ですよ」
「ありがとう。そう言われると、何だが自信が付くよ」

 紅白戦後、洗面所に行って、蛇口の下に頭を置いて水を被った。髪から頬に流れ落ちる水の冷たさが、えもいわれぬほど気持ち良かった。
 部室に戻って、椅子に腰を落とすと、隣で着替えていた香田が話しかけてきた。
「いやいや、今日も、お暑いですね~」
「んだなぁ、今日も暑っちいなぁ。香田も頭から水被ってくれば?気持ちいいぞ」
「アホ、気温の話でねぇよ」
「んだば、何の話だ?」
「相変わらず鈍いなタゲは」
「ははーん、分がったぞ、今日の紅白戦の事だべ。確かに、我の3点シュートはホットだったな。自分でいうのも何だばって、今日は絶好調だった」
「シュートの話でねぇよ、こっちの話だ」
 香田は小指を立ててニヤついた。
 岳実は、ドキッとした。

「前から思ってたんだばって、マーちゃんは、タゲさ気があるな…」
「そんた訳ねぇべ。マーちゃんは、気配りが上手だがら、そう見えるだけだよ。我さ気があるように見えるなら、部員全員さ気があることになるべ」
「いやいや。マーちゃんは絶対に、お前さ気があると思うよ。休憩の時には、いの一番に、お前さポカリを持っていくんだ」
「そんたことねぇよ。偶然だよ偶然」
「偶然でねぇよ。十中八九、タゲが一番先だな」
「あっそう、それは気付かねぇがったな」と、とぼけた。
「紅白戦でもタゲのシュートが決まった時は、妙にはしゃぐし。明らかに、我のシュートが決まった時とはリアクションが違うんだよな」
「今日は、我のシュートが連続で決まったがら興奮したんだべ」と、わざととぼけてみせた。
「いやいや。タゲを見るあの目は惚れた女の目だな。少女マンガの主人公みたいに、星のようにキラキラ光ってだもん」
「アホ、目が星みたいに輝く訳ねぇべっしゃ」
「いや、マジで光ってだ。あれは、好きな男を見ている女の目だな。今度、デートに誘ってやれよ。何なら、我がセッティングしてやるが?」
「ちょっと、勝手に話進めるなよ。お前が妄想を膨らませるのは勝手だばって、変な噂が立ったらマーちゃんに迷惑だべ」とは言ったものの、悪い気はしなかった。
 真沙美は、とびっきりの美人ではないが、円(つぶ)らな瞳が可愛く、利発な女の子だった。
「若しかしたら、その内、マーちゃんが告白してくるかも知れねぇな…タゲ先輩、私を抱いてください!って言われたらどうする?おい、この色男」
「そんたこと言われたら…意識して、練習に集中できねぇぐなってしまうなぁ」
「何だよ。タゲは乗り気じゃねぇのがよ。若しかして、他に好きな女子(おなご)でもいるんだが?」
「べっ、別にいねぇよ」と、首を振った。
「ムキになってる所が怪しいな。まぁ、いずれにしても、タゲには絶好のチャンスだな」
「チャンスって、何のチャンスだよ?」と、首を傾げた。
「はーっ、とぼけやがってこの野郎。決まってるべ…童貞とおさらばするチャンスだよ」
 香田が耳元で囁いて、わき腹を突っついた。
「全くお前は、すぐそういう話に持っていく」
「我の予想では、残念ながら、マーちゃんは処女じゃねぇな」
「いや、きっと処女だよ」と、ムキになって言った。
「ほう、何でそう思うのや?」
「何でって言われてもなぁ…まぁ、雰囲気がな…清純そうだし」
「バーカ、女は見掛けによらねぇんだよ。一見、清純そうな女が、実は、経験豊富だったりするからなぁ。マーちゃんは、胸もデカくてスタイルいいがらなぁ。脱いだら凄そうだしなぁ…」
「処女かどうかは、スタイルは関係ねぇべ。マーちゃんは、きっと処女だよ」
「ほう、そこまで言うなら賭げてみるか?」
「賭げるなんて不謹慎だよ。第一、どうやって確かめるんだ」
「そりゃ、お前、エッチした後にシーツに出来る赤い印を確かめれば良いんだよ。でも、童貞くんには、そんな事を確かめている余裕はねぇかも知れねぇな。逆に、マーちゃんにリードされて、タゲ先輩って…童貞だったんですねって言われちゃったりして」香田は妄想を膨らませて笑った。
「いい加減、その口に、チャックしろ。それに、そんた事をペチャクチャと喋ってだら、マーちゃんに失礼だべ」岳実は、だんだん腹が立ってきて、語気を強めた。
「そんたにムキになるなよ。んでも、タゲも、ようやく、今年の夏で童貞とおさらば出来るかもなぁ」香田は片頬を釣り上げて笑い、岳実の肩をポンと叩いた。

 香田の言葉が、コーヒーの中に落とした一滴のミルクのように、岳実の心をマーブル模様に変えた。『童貞』という言葉を耳にすると、後ろ指を指されているような気持ちになる。生まれながらにして男と女は不平等だ。女には処女という純潔の紋章が与えれられが、男には童貞という足かせがはめられている。処女を守る事は美徳であるが、童貞を守る事に何のメリットもない。
 香田は、口八丁手八丁の男で、色恋沙汰には事欠かない。良く言えば性に対して大らかで開放的な男だが、悪く言えば節操のないヤリチン野郎だ。香田は、いわば、『あっちの世界』の住人で、一方、岳実は、『こっちの世界』の住人だった。あっちの世界には、石榴(ざくろ)がたわわに実っているが、こっちの世界には、桜ん坊がプラプラと風にれているだけだ。
 二つの世界の境界には、エベレストよりも高い壁が立ちはだかっていた。
『あっちの世界』の住人は、優越感というフィルターを通して、桜ん坊たちを眺めていた。一方、『こっちの世界』の住人は、劣等感というモザイクを通して、石榴の実を眺めていた。艶かしい紅色を放ちながら蠢いている石榴の実。しゃぶり付きたい衝動に駆られるが、モザイクに阻まれ悶々(もんもん)として、真珠の情熱をほとばしらせるしか、なす術がないのだ。
 岳実の脳裏に、ふと、真沙美のヌードが浮かんだ。胸を隠していた手を広げ、優しく岳実に手を差し伸べた…そんな妄想を払拭する為に、もう一度、洗面所に走った。
 蛇口の下に頭をつっこみ、思いっきり冷水を被った。

 第11章 終了