第1章/大水青

 校庭に桂の巨樹が生えている。樹齢は300年ともいわれ、幹回りは10mを超える。高校のシンボルであり、桂鳴高校という名前の由来にもなっている。ハート型の葉を、サラサラと風に鳴らしている。葉っぱがハート型をしている事と、「愛染かつら」という小説が、かつて映画化され一世を風靡した事もあり、カツラは、恋愛成就のご利益があると言われている。
 岳実は木陰で弁当を食べながら空を眺めた。初夏の空はセルリアンブルーに染まり、真綿のような入道雲が眩しかった。
 半ドンの土曜日は、午後からバスケット部の練習があった。体育館の手前まで行くと、キュッ、キュッと、バッシュが床を噛む音と、バスケットボールがリングに当たる音が聞こえた。中に入ると、キャプテンの香田がシュート練習をしていた。彼に近付くとパスをくれた。3点シュートを放った。ボールがリングに触れず、”シュパーン”という心地よい音を発して、シュートが決まった。”シュパーン”、何と心地よい音だろう。リングに触れずにシュートが決まった時の音は、バスケットマンにとって至福の音だ。
「タゲ、調子いいな。その調子で明日の試合も頼むぞ」香田が言った。
 ”タゲ” というのは岳実のあだ名だ。
「おう、任せとけ。能工なんて屁の河童だ」
「試合後に、その台詞をもう一回聞かせて欲しいもんだな」
 香田は苦笑した。
 練習試合が、明日の日曜日に、予定されていた。相手は、全国大会で最多の優勝を誇る能代工科大附属高校、通称、能工だ。桂鳴高校は能工と同じ北秋田ブロックだったので、地区大会から対戦せざるを得なかった。
 今秋の新人戦で当たる相手とはいえ、桂鳴のコーチの頭には、初陣を飾って選手たちに自信を付けさせるという気持ちは微塵もないようだった。コーチは、能工との練習試合を切り出す際に、得意げな顔で、ライオンが自分の子供を崖に突き落とす喩え話をした。
 能工といえば、高校バスケットのライオンのような存在だ。しかし、動物園の檻にいるライオンとは訳が違う。古代ローマのコロッセオの戦士のように、ライオンと同じステージで戦わなければならないのだ。部員たちは、内心、戦々恐々としていた。

 次の日、試合の当日の朝、能代駅に着いた。プラットフォームに降り立つと、バスケットリングが駅舎に飾ってあった。駅から能工まで歩いた。道沿いの電灯や道路標識、ガソリンスタンドの看板にもバスケットがかたどられていた。さすがは、バスケットのメッカと言われる能代だ…と、試合をする前から圧倒されてしまった。
 街を過ぎて校門に到着した。校門横には、ブロンズ像が飾られていた。ディフェンスを跳ねのけてレイアップシュートを放つ選手の像だった。バスケットの像が校門にあるのは、世界広しといえども、能工ぐらいのものだろう。
 巨大な蒲鉾型の体育館の外壁に沿って伸びる階段を上り、二階の観客席から中に入ると、数多くの部員が機敏な動きで練習していた。能工独特の軍隊のような緊張感が漲っていた。
 観客席で急いで着替えをしてから、能工の選手が練習しているコートに下りていった。能工の男子マネージャーの「集合!」という一声で、能工の部員全員がダッシュで集合してきた。両チームが互いに、「お願いします」と唱和一礼した。目の前に、バスケ雑誌の月刊バスケットボール に掲載されたこともある有名な選手が何人もいた。能工は、今年も優勝候補の筆頭だった。彼らが恐ろしいのは、どんなに弱い相手であっても、全力で襲い掛かってくることだ。ライオンは一匹のウサギを仕留める時も全力で襲うのだ。

 岳実のポジションは、ポイントガードだったが、補欠だった。スタメンは同期の久保田だった。身長は170㎝弱で岳実よりも小さいが、敏捷でボール運びが上手な選手だった。能工と戦う場合、最もプレッシャーを受けるのがポイントガードだ。
 能工は、オールコートの激しいディフェンスで、積極的にボールを奪いにくる。将にライオンの狩りの如きディフェンスだ。ガードがボール運びの途中でスティールされると、そのままシュートに持っていかれてしまうので、ガードが一番、神経と体力を摩り減らす。
 岳実は、途中で久保田と交代で試合にでた。しかし、激しいオールコートディフェンスの前に、手も足も出なかった。ドリブルしては包囲され、パスしては奪われた。他の選手も同様だった。
 終わってみると、35対150という大敗だった…バスケ人生の中で、最も屈辱的な敗北だった。桂鳴バスケ部は、崖の下に落ちる所か、地獄の底まで転げ落ちてしまった。その後、10分のミニゲームを何度かやったが、やればやるほどズタズタにされた。途中から能工は、二軍や三軍の選手を出してきたが、それでも勝てなかった。

 試合後、コーチは、落ち込む選手たちを集めた。
「いいが、お前(めぇ)がた、崖から這い上がる力がねぇば、立派なライオンにはなれねぇぞ」と、くどくどと説教を始めた。しかし、全く効果はなかった。何故なら、自分たちがライオンではなくウサギだと思い知らされたからだ。
 試合前、正直な所、能工に勝てるとは思っていなかった…しかし、一泡吹かせてやろうと意気込んでいた。だが、蓋を開けて見てれば、一泡吹かせる所か、こちらが、吹く泡がなくまで、ボロクソにやられた。帰りの列車の中では、誰もが無口だった。いたたまれない気持ちで車窓を眺めた。田園の彼方には、暮れなずむ空を背にした白神山地が見えた。美しい夕景が、余計に心を悲しくさせた。

 岳実は、駅から自転車に乗って帰路に付いた。ペダルがやけに重く感じた。街灯に、美しい蛾が飛来していた。自転車を停めて見上げた。大水青という蛾だった。青林檎のような色で透明感があった。
 大水青は、街灯に向かって狂ったように羽ばたいていた。人間が夜の自由を得るために作り出した光が、大水青の自由を奪っていた。心の中で、大水青に語りかけた。
「お前は街灯の回りをグルグル飛び続けるのか?それじゃ、俺と同じ負け犬じゃねぇか。せっかく美しい姿で生まれてきたのに、こんな薄汚い街灯の下で、のたれ死ぬなんて…」
 道端の石ころを拾い上げ、力強く握り締め、街灯目掛けて投げ付けた。パリーンと蛍光灯のガラスが砕け散り、破片が路傍に落ちた。
 夜空に上弦の月が浮かび、ガラスの破片が月光の欠片のようにチラチラと輝いていた。大水青は、夜光の呪縛から逃れ、月夜の空へと飛び去った。        

 第1章 終了